青猫のトルソ

彩雲国王都、貴陽。
その眩いばかりの王宮の内朝も深夜ともなると、衛士や、一部を除いた官吏以外は務めを終え、今頃は、自邸で眠りについているだろう。
だが、その内朝の一室から、皓々と明かりがもれていた。
例外の一人である、吏部侍朗、李絳攸は黙々とうず高く詰まれた書翰の山から一枚、また一枚と取り上げては、目を通し官印を押していく。
さすがの吏部官吏たちも、もう残っておらず先ほど最後の一人が退出を告げていった。
半分ほどその山を崩したとき、ふいに手元を照らしていた蝋燭の火が外から入り込んできた風によって、ゆらりと揺れた。
「楸え――…」
顔もあげずに絳攸は、邪魔をするなと言いかけて、その台詞を次の瞬間はっとしたように飲み込んだ。
何故なら、楸瑛がこの朝廷――、どころか、貴陽に居るはずがないのだから。
「遅くまでお疲れ様です。絳攸殿」
コツコツと杖の音を響かせて、侍朗室へとやってきた人物は、穏やかな微笑を浮かべて、絳攸の側までやってくる。
「鄭尚書令!」
意外な人物の登場に絳攸は慌てて、椅子から立ち上がり、脚の不自由な悠瞬をこれ以上歩かせることのないよう、彼の側に寄る。
「御用であれば、私の方から出向きましたのに」
「用事というほどのことでもないのですよ。こちらこそお仕事の邪魔をしてしまい申し訳ありません。お声をおかけしたのですが、気づかれなかったようですので、勝手に入らせていただきました」
「いえ、こちらこそ杖の音にも気が付かず。大変失礼いたしました」
「それ程、集中していらしたということでしょう。絳攸殿はお忙しくなると、食事を取ることすら忘れるとお聞きしますから、あまり根を詰められないようにと、見に来たまでです」
悠瞬は恐縮する絳攸に気にすることはないと言って、一言断ると長榻へと腰を下ろす。
「貴方も座りませんか。絳攸殿」
悠瞬はそう言って、自分の隣に座るようにと促す。
何か内密の話でもあるのだろうかと、絳攸は少々緊張して悠瞬の言われるままに腰を下ろす。
「いつも黎深が迷惑をかけて申し訳ありませんね」
「え、いえ、その…そんなことは」
だが、悠瞬の口から出た言葉は養い親に対する謝罪だった。どんな話をされるのかと身構えていた絳攸は肩透かしをくらう。
「黎深と鳳珠…黄尚書、管尚書たちとは、古い友人であることはご存知でしょう。同じ時期に進士となり、当時前例がないほど若かった私たちは、朝廷預かりとなりました」
突然、昔語りを始めた悠瞬に、絳攸は戸惑いを隠せないでいるが、悠瞬は構うことなく、続ける。
「やがて、それぞれのところに配属されたのですが、私は中央に留まるよりも茶州へ行きたいと申しでました。それを聞いた黎深たちは考え直すように何度も私に言ってきましたが、私が、考えを変える気がないと知ると、黎深などは激怒しましてね」
そのときのことを思い出したのか、おかしそうに悠瞬はくすりと笑う。
「懐かしいですね。丁度、絳攸殿あなた達くらいの年齢の頃でした」
「私たち…とはどういう意味でしょうか?」
目の前にいる絳攸だけを指すならば、『あなたくらい』と称するのが一般的である。
それをあえて複数を指すとはどういうことかと、絳攸は訝しがる。
「藍将軍と、絳攸殿をみていると昔を思い出します」
先程、悠瞬が入ってきたときに『楸瑛』と言いかけたのを聞かれていたのかと、絳攸の頬に恥ずかしさの為にカッと赤みがさす。
少し前までは、絳攸が居残っていると大体において楸瑛が、どこからもなく現れて、許可した覚えもないのに、勝手に室に入りこんで、椅子に腰掛けふざけたことばかりを一方的に言って、去っていくのが珍しいことではなかったから。
だから、ついいつもの癖で呼び掛けてしまっただけなのだ。
(君はいつも無理をしすぎるね)
ふいにそんな台詞を思い出し、絳攸は何かに耐えるように胸のあたりの衣をぎゅっと掴む。
「鄭尚書令、私は、楸瑛…藍将軍の事情は分っているつもりでした。それでも、いつの間にか、主上と共に居ることがあまりに当たり前になっていて、それがずっと続くと思い込んでいたのです」
そんなことにも気が付かないほど、自分は愚かだったのだと絳攸は自嘲気味に笑う。自分も楸瑛もずっと側に居るという幻想を抱かせ、そうして、あの王を傷つけた。
「あくまで、つもりだったのですね…」
絳攸はぽつりと呟く。
「絳攸殿。私は、茶州に赴くと決めたとき、もしかしたら、もう二度と黎深たちとは会えないかもしれない。そう思って旅立ちました。ですが、こうして再び貴陽の地を踏むことができ、懐かしい友人たちとも顔をあわすことが出来ました」
僅かに俯いてしまった絳攸を悠瞬は目を細めてみつめる。
平静を装ってはいても、突然の別れに傷ついていないはずがない。あの心優しい王と同じく、絳攸もまた優しい青年である。ましてや、楸瑛とは長い付き合いなのだから。
「私は全てのことにおいて、風が吹くときということがあると思うのです」
「風ですか?」
「はい風です。それはあるいは岐路に立つということなのかもしれませんが、何事にも時期というものがあると思うのです」
悠瞬の言葉の意味を図りかねた絳攸は、その淡い色の瞳を瞬かせる。
「それが、悪いことの前触れなのか、良いことの前触れなのかは分りません。ですが、どうせならば、良いことの前触れと考える方が強運を引き寄せられると思いませんか」
悠瞬はそう言って、柔らかな微笑を湛える。
穏やかな物言いに反して、不思議と力強さを感じされられる言葉だった。
「信じましょう。藍将軍が再び、戻ってこられる日を。そのときは、ぜひ主上もお誘いになって、盃を交わされると良いでしょう」
「ええ、そうですね」
その日のことを思い、絳攸の口許には漸く微かではあるが笑みが浮かぶ。
それが、一月先か、はたまた一年先か、それは分らないけれど、それでも信じてみたい。
いつの日か、三人揃ってささやかな宴を開けることができる日を。
「ああ、すっかり長居してしまいましたね。お仕事の邪魔をして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした」
絳攸は少し照れくさそうに頭を下げる。
本当にこの方は全てをお見通しなのだ。これでは黎深も敵わないはずだとあらためて尊敬の念がわく。
「私は、絳攸殿よりも、ほんの少し長く生きているだけですよ。何もできないかもしれませんが、話を聞くことくらいはできます」
悠瞬は長榻から立ち上がると、手にした杖を支えに歩き出し、室を出て行こうとする。
「黎深に、もう少し真面目に仕事に取り組むように私から言っておきましょう」
最後にその言葉を残して、送っていこうとする絳攸の申し出を断ると、コツ、コツ、と杖の音と共に、回廊を去って行く。
絳攸はその姿を見送って、夜空に浮かぶ月を見あげる。
「あいつも、藍州でこの月をみているのだろうか」
どこでみても月の形は変わらないというのに、どうして人の思いだけはままならないのだろう。絳攸は回廊の柱に手をつき、そっと溜息をつく。
「帰ってきたら、言いたいことがたくさんある。だから早く戻って来い楸瑛」

切なる願いを月に託すと、絳攸はそっと瞳を伏せるのだった。



                                           

 2007.4.29UP



コメント
楸瑛のいない貴陽にて、『絳攸、楸瑛を想う』の巻きでした。王都組の話な要素が強いですね。悠瞬さま何気に好きです。あの黎深さまを殴ったって時点でスゴイお人ですよ(笑)




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