薔薇が眠れるまで 2




子供のお守りなど冗談ではないと思っていたが、殊の外、楽しいことに気づいた。

絳攸は、言われたことは素直に頷くし、一度指摘した間違いに関しては、二度同じことを繰り返したことはない。

仕事の面で筋道の通らないことに関しては上官であろうと、何であろうと納得の行く答えを聞くまで引き下がらない姿勢は見事なものだと思った。

これは他の官吏では持て余すだろうと楊修は即座に看破する。

とはいっても、絳攸を指導する立場ではあるが、楊修の仕事は他にもある。
一口に官吏といっても、出身や立場によって様々な思惑を抱えている。

それらの不穏な動きを察知し、官吏としての適正なしと判断したものについては降格、場合によっては朝廷を退いてもらう。

それらを調べるのも吏部のもう一つの役割だった。

だから、常に吏部に居られるわけではないが、今はなるべく絳攸の為に時間を割きたいと思うようになっていた。

吏部に戻ると、楊修の姿をみつけた絳攸ががたんと音をたてて椅子からたちあがり、顔を輝かせて側に駆け寄ってくる。

「楊修さま、来期の予算編成が戸部から回ってきたので、まとめておきました」

数ヶ月もすると、絳攸は吏部にはすっかり馴染み、他の官吏に言いつけられる細々とした雑用をこなしながら、時間をみつけて、楊修の出した宿題をやり終えるまでになっていた。

「ですが、少し分からないところがあって。お時間があるときに教えていただきたいのですが」
「ああ、どこかな?」

楊修ははずしていた細い鎖のついた眼鏡を官服から取り出すと、絳攸の書き上げた書翰に目を通す。

わからないことをそのまま放っておくのではなく、なるべくその場で答える。これだけでも見るものがみれば、いかに楊修が絳攸を買っているのかがわかるものだった。

「絳攸、この場合は――」

絳攸は楊修の説明に一言も聞き漏らすまいと真剣な表情で聞き入っている。

そんな姿をみて、楊修はふと微笑をもらす。

見ていて飽きないなどと思わせたのは、今までの人生で初めての経験だった。

どれだけ、叱ろうと自分を慕ってくる絳攸。
滅多にないが、誉めたときには照れたような、はにかんだ笑みを浮かべる。

そんな一つ一つの仕草が楊修を捕らえて離さなかった。

 

 

 

だが、よくみていた故に気づくこともある。

彼の支配者は、紅黎深だ。黎深が右といえば右を向き、左といえば、左を向く。

官吏たるものにとって、考えるべくことは国の行く末。民が如何に飢えることなく、凍えることなく平穏に暮らせるか。

官吏が心を砕かなければならないのはその一点に絞られる。

けれど、絳攸の場合は如何に黎深の役に立つか。それが絳攸が己を判断するときの基準だった。
能力はある。素材も悪くない。けれど、絳攸は間違った方向に枝を伸ばそうとしている。

そこが、絳攸の致命的な欠点であった。

だが、黎深を超えることができれば、歴史に名を残すほどの名官吏となるだろうと思えた。

これは一種の賭けだった。

だからこそ、周囲の猛反対を押し切ってまで、侍郎に絳攸を推したのだ。

「結局は紅黎深のお守りで終わってしまうのか−」

楊修は、胸に重いしこりを抱えたまま吏部侍郎室の前に立つ。

恐らく、これが李侍郎への最後の報告書となるはずだ。同時に覆面官吏としての自分の役目も終わる。

楊修は何かを振り切るように、一度目を伏せ、気持ちの整理をつける。

次の瞬間には常と何も変わらぬ、心の内を読ませない平坦な声音で告げる。

「李侍郎、報告書をお持ちしましたが、入っても宜しいでしょうか」

扉の外から、中にいるであろう室の主へと声をかけるが、返事はなかった。

灯りは漏れているので、不在ということはないはずだ。そう判断し、扉を開く。
侍郎室は、惨憺たる有様で相変らずの書翰の山で埋め尽くされている。
「李侍郎?」

その中で僅かに開いた机案の上に力尽きたように眠っている、かつての愛弟子の姿があった。

机案に置かれた蜀台に照らし出された顔は、驚くほど青白く、疲労の様がくっきりと浮かび上がっていた。
決済の途中で眠気と疲労に耐えられず、崩れ落ちたのか、手には侍郎印を握ったままだった。

「まったく、君はどこまで愚かなんだ」

楊修は哀れむように、細い寝息をたてる絳攸を見下ろす。

そこには、迸るような才気の煌きはなく、ただ疲れ果てやつれた姿があるだけだった。

楊修は絳攸の握り締めたままだった侍郎印を、指を開いて取り上げると机案の隅に置いた。

絳攸は違和感を感じたのか、掌が失ったものを確かめるように動くが、それも僅かな間だけで、起きる気配もなく、静かに漏れる呼気だけが室を支配する。

「絳攸」

小さく名を呼び、楊修は規則正しい呼吸音を漏らす唇に己のそれを重ねる。

何故、そんなことをしたのか楊修自身も分からなかった。
触れた唇は連日の不摂生で、すっかりかさついていて、それがとても楊修を悲しくさせた。

「私は間違っていたのだろうか―」

呟くが答えを返すものはいない。

楊修は自分が持ってきた書翰を適当に未処理の山の一番上におくと、灯りを消して回る。
最後に、机案に置かれた蜀台を吹き消すと、室は完全なる闇が支配するだけとなった。

楊修は、振り返ることもなく侍郎室を後にする。

回廊に出ると、途端に夜気の冷たさを含んだ風が肌を撫でていく。ふと空を仰ぐと、そこには霞がかかった月がぼんやりと浮いていた。

「明日は雨かな。陸清雅くんも雨の中の捕り物とは、けちがついたものですね」

手筈は整えたので、決行は明日。そう告げられた。既にそんなことは楊修の中でどうでも良いことになっていた。

 

ただ、一つ悔いがあるとすれば、それは――、

こんな結末がみたかったわけではないのに、ということだけだった。

 




 
2008.5.17UP

微妙に暗くてすいません。楊修モノローグ集になってしまいました。ただ、楊修さんは絳攸のことを本気で愛しているから悲しかったんだよーということが書きたかっただけ。楊修さんと絳攸のラブラブ(?)官吏生活も書いてみたいですね。




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