月光浴
風にのって、ふわりと鼻腔をくすぐる芳香に楸瑛は、手にした杯をそのままに、ふと顔をあげた。
貴陽―紫州にある、紅邵可邸、この邸に、食材を持ち寄っては、食事の招きに預かるという食事会が開催されて、もうかれこれ、二ヶ月ほどにはなるだろう。
始めた頃には、むっとした熱を孕んでいた空気も、このところめっきり涼しくなり、今では、庭院から虫の音が聞こえてくる時季となっていた。
「ああ、良い香りだね。銀木犀だろうか、静蘭」
「ええ、そうですね。どこかで咲いているのでしょう」
問いかけられた静蘭と呼ばれた青年は、格子窓の方へと視線を移す。
静かな夜だった。にぎわいをみせた食事会は、皆で、分担して後片付けをすませ、この家の主は、先ほど、近所のものに呼ばれて出ていったきり、まだ戻ってきていない。
そして、楸瑛と共に連れ立ってやってきた絳攸は愛弟子に勉強を教えるべく、彼女の室へと行ってしまった。
詩歌でも作っているのか、時折、夜陰にまぎれて韻を踏む声が聞こえてくる。
きっと、初の女性官吏の道に向かって歩みだした彼女に、持ちうるすべての知識を与えるべく、彼もまた、真剣なのだろう。
楸瑛は、室の中の二人を想像して、ふと表情を悪戯めいたものに変える。
「しかし、静蘭、いいのかい?このような夜更けにうら若き男女を一つ室に押し込めて。何か起こったらどうするつもりだい」
静蘭を揶揄すべく、楸瑛は口の端に笑みを浮かべたまま、その表情を伺う。
「お嬢様に限って、そのようなこと起こり得るはずがありません。それに、どこかの、どなたかと違って、絳攸殿は信頼できる方です」
さらりと、受け流され、楸瑛はつまらなさそうに、再び杯を開ける。
「あなたが、妬かれていらっしゃるのは、どちらです?」
言外に、『お嬢様ではないでしょう』と告げられ、楸瑛はぐうの音も出なくなる。
「静蘭…。とある、姫君が居るとしよう」
楸瑛は、窓の外に浮かんだ皓々と輝く月をみながら、物語を語る。
「その姫は、檻に閉じこもっていてね。檻を守っているのは、手強い妖なのだよ。とある若者がその姫を手にしたいと思ったとき、一体、どうすれば良いのだろうね」
突然、語られたお伽草子ともいえる話だったが、静蘭は、暫し考え込むようにして、口元に手をやると、徐に口を開いた。
「それは、姫君自信に檻から出ていただくしかないのでしょう」
「おや、何故、そう思うんだい?」
楸瑛は、面白そうに片眉をあげる。
「藍将軍のお話では、檻に閉じこもっているとありましたので。閉じ込められているとなれば話は別ですが」
「成る程、さすがは静蘭だ」
普通なら、気が付かない些細な言い回しさえも見抜いてくる頭の回転の速さは、さすが、かつて公子一優秀だと謳われていただけある。
「その檻から出てもらうのが一苦労なのだけどね」
何せ、美しき銀月の君の前に立ちはだかっているのは、恐ろしい紅き鳳凰なのだから。
「まあ、せいぜい頑張って下さい。迂闊に手を出して、鳳凰の怒りの炎に焼かれないようにして下さいね」
優しげな面立ちに、にっこりと微笑みを浮かべると、実にあっさりと言ってのける。所詮は他人事。自分の敬愛する主人一家に累が及ばなければ、どうとでもしろと言いたいのだろう。
「そうだね。高嶺の花に手をだして、転落死などという、ぶざまな真似を晒すわけにはいかないからね」
この秘めた想いを誰かに聞いて欲しくて、第三者的例えを使って話してはみたが、どうやら、人物の選択を誤ったらしい。
楸瑛は、どっと疲れを感じて、苦笑いをする。
杯を飲み干し、再び、格子窓の外へと視線を移したときだった。
「何だ、お前まだ居たのか?」
いつの間にか、勉強会も終了となったらしく、気が付けば、目の前には手荷物を纏めた絳攸と、見送りに出てきた、彼の弟子の姿があった。
「お疲れ様です。絳攸殿」
静蘭は、絳攸に礼を述べ軽く頭を下げる。
「お嬢様もお疲れでしょう。甘茶など飲まれますか?」
そういって、二人を気遣う態度をみて、自分に対するときと随分違わないかと楸瑛は、内心思ったが、口に出すほどのことではないので、黙っておくことにした。
「さて絳攸。夜も大分更けてきた、そろそろ、お暇しようか」
「ああ、そうだな」
楸瑛は、絳攸を促すと、自らも立ち上がる。
軒の用意をという静蘭に楸瑛は、その申し出を断る。
「今夜は、とても月が綺麗だ。月を見ながら家路につくのも悪くないだろう」
絳攸の方を伺うように見れば、意外な申し出に少々面食らったような顔をしていたが、幸い明日は公休日だということも手伝ってか、素直に絳攸も頷いた。
門のところまで、送ってもらい、では、またと去りかける二人を静蘭が呼び止める。
「絳攸殿、この界隈は狼が出没すると聞きます。くれぐれも、お気をつけてお帰り下さい」
「静蘭!」
くすりと、一つ笑いを漏らして告げた言葉に楸瑛が珍しく焦った声をあげる。
「狼がでるのか?!それは物騒だな。至急、対策を取らせよう」
絳攸が真剣な面持ちで言うが、楸瑛は視線を逸らし、静蘭はどことなく楽しそうであった。
意味が分からずに、絳攸は一人怪訝な表情をする。
それでも、心配無用という静蘭の言葉に送り出されて、釈然としないまま、帰路へとつく。
ひっそりと静まりかえった、夜道を二人で他愛もないことを話しながら、月明かりを頼りに歩く。
「そういえば、こんなふうに月をゆっくりと眺めるのも久しぶりな気がするな」
「偶には、こういうのも乙で良いだろう、絳攸」
降り注ぐ、月の光を仰ぎ見て絳攸が感じ入ったように呟く。
「綺麗だね…」
「ああ、本当だな」
傍らに立つ絳攸は、淡く輝く光に照らされて、銀糸の髪がきらきらと煌く。
その様はまるで、そこにもう一つの月があるかのようで、思わず手を伸ばして触れてみたくなる。
「私は、天の月よりも地上に輝く月の方が美しいと思うけどね」
「何か言ったか?」
小さな呟きは絳攸の耳に入ることなく、空中に消えていく。
「何でもないよ。狼が出没しないうちに帰ろうか」
さすがに、このような場所で、彼をどうこうしようという気にはならないが、唇くらいなら、奪っても許されるだろうか。
そのような埒もない考えが浮かんでしまうあたり、自分も存外、症状は重いのかもしれない。
「あまり遅くなって、紅尚書に睨まれでもしたら、ことだからね」
「ああ、そうだな。邵可様と秀麗のこととなると、あの方は盲目になるからな」
養い親の思惑など、知る由もない絳攸はそう言って、足を速める。
(君を連れまわしたことで、私が睨まれるという意味だったのだけどね)
楸瑛は、黎深が、自分に向ける氷のような視線を思い出し、苦笑する。
どうやら、銀の月の姫君は、自ら檻の扉を開いてくれる気はないらしい。
宝物の番人の元へと急ぐ、彼を見やり、苦笑する。
だが、今はそれで良い。こうして並んで月を眺めることのできる立場に甘んじていよう。
いつか、この想いが届くまで、じっくりと待つとしよう。
そう楸瑛は決めて、愛しい人の背中を追うのだった。
2006.9.27up
コメント
3万Hit記念フリー。双花というより、黒静蘭と楸瑛というカンジ?(笑)黎深さまにとって絳攸は掌中の珠だと思います。でもそれだと龍=藍家のイメージがあるので、鳳凰にしてみました。箱入り迷子。(笑)狼さんに食べられないようにね!!