寒蝉鳴

猛暑と呼ばれた夏も終わりに近づき、いつの間にか頬を撫でる風は幾分涼しさを覚えるようになってきた。

最も、今から向かう室の主は、陽光の加減など知る由もないだろう。

このところ、とみに量を増した書翰と、来る日も来る日も、室に閉じこもり格闘しているのだから。

楊修は溜息を一つ吐いて、両手に抱えた書翰を抱えなおすと、わざと物音をさせてから、室に向かって声をかける。

「失礼。入りますよ」

楊修の呼びかけに、この吏部侍朗室の主である絳攸はようやく顔をあげた。

「これはどこに置いたらいいんですかね?」
「ああ、そこら辺に置いておいてくれ」

絳攸は、疲れたように言う。

しかし、楊修がみたところ、既に室は書翰で溢れ返っていて、置く場所などとてもない。

「置けって言われましてもね、置く場所なんかありませんよ。尚書室にでも運びますか」
「それができれば、どんなにいいか…」

呻くように呟く絳攸を一瞥して、揚修は決済待ちと思われる書翰の比較的小さな山に、無造作に両手に持った書翰をおろす。

「しかし、すごい有様ですねー。筆頭侍朗っていうのも楽じゃありませんね」

室内をぐるりと見渡し、他人事のように言う楊修に絳攸は気分を害したのか、眉根を寄せる。

「何が言いたい?」
「別に。尚書の補佐どころか、これじゃとばっちりだなと思っただけですよ」
「仕方ないだろう。どいうわけか、まったく仕事をなさらなくなってしまったんだから」

絳攸はこのような状況になっても、未だに上司兼、養い親のことを悪く言われるのが気にいらないらしい。

楊修と話しながらも手は休まることなく、黙々と書翰を捲り続けている。

その横顔をみながら、酷い顔色だと思った。

日に当たらない為か常でも白い面は、疲労と睡眠不足のため、目の下に隈がくっきりと浮かんでいて、痛々しさを隠し切れない。

それでも、伏せた睫の長さと相俟って、ともすれば儚げともとれる、どこか危うい風情を醸し出している。

「まぁ、いいですけどね。どこまでやるかなんて貴方の自由ですから」
「お前、今日はやけに絡むな。何かあったのか?」
「気のせいじゃないですか。いつもこんなものですよ」

楊修はさらりと受け流して、何気ない仕草で絳攸の机案の書翰を捲り、『そうそう』と続ける。

「藍楸瑛が王と共に貴陽に戻ってくるそうですよ」

いかにも世間話のついでという感じで告げられた、思いもかけない台詞に絳攸の筆がぴたりと止まる。

「主上と…楸瑛が?」
「ええ。詳しいことは知りませんけどね。藍家が、よく数少ない重要な手駒を手放したなと不思議に思っていますよ」

含みのある楊修の物言いに、絳攸は書翰から顔をあげ、楊修にひたと視線を合わせる。

「そんな怖い顔しないで下さいよ。これ以上は私も知りませんよ。つい先程、報告を受けたばかりなんですから」

青みがかった藤の瞳は楊修の真意を探ろうと鋭い視線を投げかけてくる。
宝玉のような綺麗な瞳が自分だけを映し出していることに、楊修は微かな満足を覚える。

「何であれ、主上が無事戻って来られるのなら、それでいい」

絳攸はそれだけ言って、ふいっと視線をはずす。

「正確に言うなら、藍楸瑛も…ですよね?」

再び、書翰に向かい始めた絳攸の筆がほんの少しぶれ、墨が落ちる。

落とされた墨は、水のように広がり、あっという間に書き上げたばかりの書翰に黒い染みが侵食していく。

「せっかく、書きあげたのに、あなた何やってるんです?」

内心の動揺を隠し切れない絳攸に呆れたような声を頭上から浴びせる。

「別に、俺はあいつのことなど、然程心配していない。主上と共に戻られるなら、それに越したことはない」

平静さを装った声ではあったが、聞くものが聞けば、その声音には喜びが混じっていて、絳攸の心情をあらわしていた。

(まったく詰めが甘いというか、腹芸ができないというか…)

これでよく、魑魅魍魎が跋扈する朝廷で今まで無事に過ごせたものだと聊か呆れる。

これでは、到底覆面官吏など務まらないだろう。

黎深が絳攸を覆面官吏にしなかったのは、当時最年少状元合格という目立ちすぎる肩書きのせいもあったであろうが、裏には不向きと判断した故に表に留めおいたのであろう。

あの吏部尚書も人事に無関心なようでいて、見るべきところは見ているということか。

「だからこその表ですか…」
「楊修?」

一人納得したように頷く楊修を絳攸は僅かに首を傾げて、見上げる。

楊修を映すその瞳は湖水のように澄んでいて、目の前にいる楊修に対して、何の警戒も抱いていない。

コツ、コツと楊修は沓音を立てて、自分と絳攸の間に横たわる距離を詰める。

楊修は何かを言いかけようとした、絳攸の薄く開かれた唇をそっと己のそれで塞ぐ。

静かな室内にカランと絳攸の手にした筆の落ちる音が響く。

どれくらいの刻がたったのか、長かったような、短かったようなその接吻が終わりを告げたのは、突然の楊修の行動に唖然としていた絳攸が呪縛から解き放たれたように、暴れはじめたからだった。

「…っと、舌を噛もうとするなんて危ないですね」
「当たり前だ!ふざけるにも、ほどがあるぞ!!」

絳攸は、乱暴に袖口で唇を拭うと、鋭い視線で楊修を睨み付ける。

「忠告ですよ。あなたもぼけっとしていると足元を掬われかねませんよ」

揚修は絳攸に向かって指を突きつけ、言い放つ。
その言葉に絳攸の表情から怒りが消えうせ、引き締まったものになる。

「忠告いたみいる。せいぜい気をつけることにする」
「ええ、そうして下さい。尚書があんな状態なうえ、あなたに何かあったら、冗談抜きで吏部は崩壊しますからね」

つけつけと言いたい事を言うと楊修は、処理を終えた書翰を抱えると、一礼をし、仕事に戻るべく絳攸に背を向ける。

「とにかく、早く決済お願いしますよ。吏部で止まっているせいで、皺寄せがきて迷惑だと、戸部から苦情が来ていますからね」
「分かっている!」

侍朗室を後にした楊修は背中越しに、絳攸の自棄気味な叫びを聞くと、面白くもなさそうに呟く。

「本当に分かっているんですかね」

絳攸を取り巻く状況は水面下で日に日に厳しさを増している。

揺り籠のような穏やかな日々は終わりを告げ、苛烈な刻がやってくる。王の庇護も効かない場に立たされてどう対処するつもりなのか――。

そう問い詰めたくなる。

「何で、こんなに気になるんでしょうかねぇ」

他人のことなど、どうでもいい。そこそこの地位について上手く立ち回ればそれで良い。それが今までも、そしてこれからも変わるはずのない自分の生き方だったはずだ。

ふと、先程絳攸に触れた唇に指をやる。

そこは寸でのところで逃げたつもりだったが、噛まれたらしく、僅かに血が滲んでいる。

「何の気の迷いなんだか」

急におかしさが込み上げてきて、揚修は笑い出す。

周囲に人が居たならば、気が触れたと思われるかもしれない。

だが、そんなことは念頭になく、触れた唇の甘さだけが、今は全てを占めていた。

藍楸瑛が戻ってくると告げた時に、微かに浮かんだ喜色さえ見なければ、あのような馬鹿げた行動にはでなかったのにと思う。

「暑さにやられたんですかね」

誰とはなしに呟き、立ち止まると回廊を挟んだ庭院では、去り行く夏を惜しむかのように蜩が鳴いている。

高く澄んだ声はどこか物悲しい。

暮れかけた太陽を仰いで、揚修は溜息を一つ落とす。

眠っていた蝉が羽化するように、そう遠くないうちに、彼もまたこの場所から飛び立ってしまうのだろう。

らしくない感傷を振り払うように、揚修は瞳を伏せると、再び回廊を歩みはじめるのだった。

 

2007.9.9up

コメント
『白虹』関係ネタ。白虹で楊修×絳攸熱がヒートアップ!!前々からプチブームでしたが、とうとう自分でも書いてしまいましたよ。
楊修早くビジュアルをみたいです…vV自分の中でのイメージは20代後半もしくは30歳くらいかと…。自覚なき恋心とか萌えます(笑)






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