秘すればこそ花



「こんなところで、何しているんです?」
「ああ、何だお前か…」
絳攸はかけられた声に、まるで、たった今、夢から醒めたようにゆうるりと顔をあげた。
 
 
夜の闇にぽっかりと浮かぶ丸々と太った月。
日の光とは違う、青白い仄かな輝きが、地に降り注ぐ。
仲秋の名月。秋も半ばとなったこの日は作物の実りを感謝し、また、翌年も豊作であるようにとの願いをこめて、月に供え物をし、家族で、あるいは大切な人たちと過ごすのが昔からの慣わしだった。
常に盆と正月が一緒に来たような忙しさに追われている吏部も、流石に居残るものは僅かで、ほとんどが、退庁してしまっている。
絳攸は目を通していた書翰から、ふと顔をあげて扉の外の様子を伺う。
「しかし、遅いな」
気配を感じないかと暫し、目を瞑ってみるが、護身術程度にしか武に対する心得がない身としては、まったくの徒労に終わる。仕方なしに、先程から目を通している書翰に視線を戻すが、しかし、何度読んでも内容は頭に入ってこない。
今や本当に眺めているだけとなってしまっているのだった。
こんなに気がそぞろになるのは、珍しく仕事が早く片付いたからだろうか。
絳攸はそう自問してみる。
楸瑛が迎えに行くといった刻限から、既に半刻は過ぎている。
いつもは勝手に押しかけて、頼みもしないのに、茶を入れたり、菓子を持ってきたりして『息抜きも大切だよ』などと、邪魔をしていくというのに、約束があるときに限って、姿を見せないとはどういう領分なのか。
少々腹立ちまぎれに、絳攸は楸瑛がのこのこと現れたら、文句の一つも言ってやろうと決心し、どうにかして書翰の内容を頭に詰め込もうと指でこめかみを軽く押し、一行一行を追っていく。
どれくらい、そうしていただろうか、漸く集中して見られるようになった頃、回廊の方から、幾分早足の沓音がこちらに向かってくるのが聞こえた。
それは予想に違わず、吏部侍朗室の前で止まる。
「遅くなってすまないね」
扉が開き、月影を背に侍朗室に入り込んできた長身の人物は、予想と違わない台詞を口にした。
だが、そう言ったまま、その場から動こうとしない楸瑛に、どうしたのかと絳攸は首を傾げる。
「すぐにでも帰れるといった様子だね」
楸瑛は室内を見渡し、ついで整えられた机案に視線を移す。
相変わらず、書翰は積まれていたが既にそれらは二つの山に分けられていて、区切りの良いところまでで、片をつけ終了したのが見て取れる。
筆も硯もきちんと仕舞われていて、恐らく随分と前からいつでも帰れるようにと支度をしていたことが分かった。
「当たり前だ。帰るんだろう?何をおかしなことを言っているんだ?」
絳攸は訝しげに眉を寄せる。
一緒に仲秋の名月を愛でないかと誘ってきたのは楸瑛の方だ。
そして、とっておきの菊花酒を開けるから、藍邸に来ないかと絳攸の返事を待たずに言葉巧みに誘ってきたのだった。
今まで、紅家別邸での仲秋しか知らない絳攸にとって、誰かに望まれて共に過ごすという、初めての仲秋になるはずだった。
「うん。まぁ、そうなんだけれどね」
どこか困ったように歯切れが悪い、楸瑛の態度に、絳攸はあまりよくない予感を覚える。
それを振り払い、絳攸は楸瑛を真っ直ぐに見据えて、どうなのかと問いただす。
「もしかして、まだ待たせるつもりか?」
絳攸の問いに楸瑛は困ったように微笑むと、歩みを進め、絳攸の頬に手を添える。
「すまない。ちょっと用事ができてしまって、今夜は君と月を愛でることはできそうにないんだ」
理由は言わない。ただ、どういったら良いのかと言った様子で、楸瑛は本当に困ったようにもう一度『すまないね』と謝罪の言葉を口にする。
その台詞を聞いて、絳攸は頭の奥の方がすうっと冷えていくような感覚に襲われたが、顔には出さずに、口元を笑みの形に僅かに上げて何でもないかのような様子を装う。
「そうか。誰でも急に都合が悪くなることはある。気にするな」
あえて、そんなことかと言いたげな口調で、絳攸は言う。
「この埋め合わせは必ずするから」
楸瑛はそう言って、ゆっくりと触れていた頬から手を離す。
まるで名残を惜しむかのように、最後にもう一度指を滑らしてから、背を向ける。
余程、急いでいるのだろう。それきり楸瑛は振り返らずに、来たときと同様の慌しさで、去っていった。
「大したことじゃない…」
絳攸とて、仕事が忙しく楸瑛の誘いを断ったこと何度もある。
その度に、楸瑛は苦笑して『仕方ないね』と肩をすくめてみせたものだった。
だから、楸瑛を責める謂れは絳攸にはどこにもない。
「だが、よりにもよって今日とはな」
呟き、絳攸は糸の切れた、からくり人形のようにカクリと椅子に腰を下ろす。
そうして、どれくらいの刻限をそのまま過ごしていたのか忘れたが、突然声が聞こえ、絳攸は現実に引き戻されたのだった。
 
 

「何だお前かとは、随分なご挨拶ですね。てっきり、もう帰られたのだとばかり思っていましたよ」
楊修が夕刻、侍郎室に書翰を置きに来たときには、既にある程度の山に仕分けされていて、急を要するものと、そうでないものに分けられていたので、この刻限に仕事に見切りをつけているということは、今日は早く帰るのだろうなと思ったのだ。
仕事を続けるつもりならば、もっと雑然とあちこちに書翰が積み重なっているだろう、と。
「その予定だったんだがな」
「尚書ならとっくの昔に帰られましたよ。府庫の方に浮かれた足取りで向かって行きましたけれど」
時折、笑みを浮かべながらというのが余計に不気味だったと付け加えることも忘れない。
楊修は黎深の行動を指して、一緒ではないのかと尋ねる。
「生憎、俺は招かれていない。今日はお二人でお過ごしになるのかもしれないな」
絳攸は頬杖を机案につきながら、覇気のない声で呟く。
「そうなんですか。まぁ、尚書が誰と月見をしようが私には関係ないことですけれどね」
「お前こそ、どうなんだ?今日はもう、皆、退出しているぞ」
絳攸の何気ない一言に、一瞬、揚修の顔に何とも気まずそうな表情が浮かぶ。
だが、幸いに絳攸は気付いた様子はなく、楊修はすぐに表情を取り繕う。
「まぁ、私は独り者ですしね。酒楼に繰り出して馬鹿騒ぎするのも柄じゃないですから」
「そうか」
黎深でないとすれば、絳攸の待ち人だったものとは、やはり彼なのだろうと揚修は当たりをつける。
ここに来る際にすれ違った、宮中で唯一、準禁色の藍の衣を纏う者。藍楸瑛。
道を譲った際に、鼻腔を擽った、焚き染められた白檀の香。
現在は左羽林軍の将軍職を拝し、尚且つ、かつては十八にして国試傍眼及第という嫌味な程に完璧な男である。
その彼が珍しく、どこか苦々しげな表情で吏部の方から歩いてきたとき、何かあったのであろうと思ったのだ。
楸瑛の歩いてきた方向には吏部があった。
何も、必ず吏部に立ち寄ったとは限らないが、何となく気にかかって帰り支度をしていたのにも関わらず、引き返してきたのだ。
侍朗室を覗けば、切れかかった蜀台の明かりが照らす室で、ぼんやりと絳攸が椅子に腰掛けていたというわけである。
これでは、まるで絳攸のことが心配で戻ってきたようではないかと楊修はいつになく焦る。
「手を伸ばせば届きそうなのに、いくら伸ばそうとも掴めないものだな」
絳攸がふいに口を開く。
夜空に架かる月を切望するように、絳攸は遠い目をして開け放たれた扉の外をみている。
「どうしたんですか。今夜はいつになく詩的ですね」
「詩的か…柄にもないと言いたげだな」
絳攸は少し力無い笑いを漏らす。
「別にそんなことは言っていませんがね」
そう言って、楊修もつられるように絳攸の視線の先、丸く太った月を見上げる。

楊修は、そういえばと前置きをしてから話の矛先を変える。
「今日は、妓楼でも揚げ代は常の倍以上だとか。もちろんすっぽかしでもしたら、後々まで詰られること間違いなしだそうですよ」
部下の口から出た意外な言葉に絳攸は月に向けていた視線を、室内の楊修へと戻す。
「妓楼…。お前でも行くのか?」
「まぁ、私も男ですからね。極たまに。そう言っても他の官吏たちと一緒に付き合いで行くことがほとんどですが」
どこかの、誰かのように通いつめるようなことはしませんよ。と言いおく。
「楸瑛のことか。まぁ、あいつのあれは半分は家絡みだろうからな。後の半分はどうか知らないが」
絳攸はようやく楊修の言わんとしていることが分かって可笑しそうに笑う。
「おや、そうなんですか。大貴族というのも、中々大変なんですね」
「お前、楸瑛と何かあったのか?」
「何もあるはずないじゃないですか。向こうは名門藍家の直系。私は只の一官吏ですよ」
訝しげに眉を顰める絳攸に当たり前すぎることを楊修は言う。
どうして、この目の前の彼は笑っているのだろう。と楊修は無償に苛立たしい気持ちに襲われる。
詳しい事情は知らないが、本来ならば今夜会う約束になっていて、それを今更になって、反故にされたのだろう。
楸瑛は、いつも気丈な彼がこんなにも気落ちしていることを知っているのだろうか。
彼らが互いを心憎からず思っているのは、よく観察していると、すぐに気付くことだった。
最初は確かに驚いたが、それについてとやかく言う謂れは楊修にはなかった。
「で、何て言ってすっぽかされたんです?」
絳攸はそれには答えず、楊修の方を振り向くと組んだ指を膝の上に乗せ、立っている楊修を下から見上げる。
「お前は子供の頃、この日をどうやって過ごした?」
「どうって…、いたって普通ですよ。お供えものをして家族と過ごしましたよ」
急な質問の意図が分からず楊修は戸惑う。
「その普通に。というのが俺にはずっとなかった。黎深様に拾われて、紅家別邸で観月の宴をして、初めて仲秋というのを知ったくらいだ」
大体の事情は楊修も知るところなので、絳攸も隠すつもりはないのか、淡々と話す。
「だから、他の人にとってはどうってことのないことだが、俺に取っては思い出深い日だというだけなんだ」
まるで、自分に言い聞かせるように絳攸は何でもないことのように言う。
けれど、このような個人的な話を他人である楊修にしているというだけで、本当のところは大分気落ちしているのだろう。
「つまりは感覚の違いだから仕方がないと貴方は言いたいんですか?」
「まぁ、そういうことだ」
この話はこれでお仕舞いだと言いたげに絳攸は、それ以上のことを追求させない。
「分かりました。私も少し、個人的なことに首を突っ込みすぎたようです。別にあなたの交友関係がどうであれ、仕事さえ、きっちりやってくれれば私は問題ないんですしね」
いつもの絳攸のよく知る官吏の顔に戻って楊修は言う。
「ああ、分かっている。それより、せっかくの名月だ、少しやっていくか」
「今からじゃ、どこの酒楼も一杯ですよ」
楊修が呆れたように言うが、絳攸は立ち上がると書棚の方に歩いて行き、何やら取り出してきた。
「ここで見る月も中々悪くないと思うぞ」
「どうしたんですか、こんなもの」
「昼間、欧楊侍朗にいただいた。よくは分からんが、五穀豊穣を願って工部からの振る舞い酒らしい」
絳攸はそう言って、酒瓶を揺らす。
そういえばと、覆面官吏として紛れ込んでいたときの工部の惨状を楊修は思い出す。
大方、工部尚書の隠し財産を見つけた侍郎がその処分をせっせとしているところに、現れたのが絳攸なのだろう。
「いいですよ。お付き合いしますよ」
そういうことならば、と楊修は床に座り込む。
絳攸もまた床に座り込むと、盃に酒を注ぐ。
二人は黙って口元に酒を運び、上がってきた地方官の査定のことや、来年の吏部試についてなどをぽつりぽつりと話すが、後は煌々と夜空に輝く月を見上げながら、虫の音に耳を澄ますばかりだった。
いつもの執務室でいつもと変わらぬ会話。
だが、こうして向き合っていても、その距離は遠い。
月に照らされた横顔が心ここにあらずということを如実に語っていて、どうにも気詰まりにも似た感覚に楊修もまた、絳攸から目を逸らし、月を眺めることに専念することにした。
 
 
「――で、そこの部署のことなんですがね…って聞いています?」
覆面官吏として、潜伏していた先で気になったことをいくつか上げていると、いつの間にか相槌が止まっている。
どうしたのかのかと、横をみれば顔ばかりか、首までを朱に染めて、閉じそうな瞼を必死に開けようとしている姿があった。
「ちょっと、大丈夫ですか?こんなところで寝ないで下さいよ。風邪でも引かれたら私が迷惑するんですからね」
酒に弱いなら、弱いと最初から言ってくれたら良いのにと。楊修は舌打ちしたい気分になるが、今はそうも言っていられない。楊修は仕方なしにくたりとした体に腕を回し肩を貸すと、傍らにあった長榻に絳攸の身を横たえる。
「ほら、水飲んで」
手際よく、机案の上の水差しから杯に水を注ぎ絳攸に渡してやる。
だが、絳攸は長榻の冷たさが火照った頬に気持ちが良いのか、身を起こそうとせずに目を閉じたまま、起き上がる気配は見せない。
「起きないつもりですか?ならば、口移しで飲ませましょうか?」
「起きる…」
楊修の本気なのか、脅しなのか解らない言葉に絳攸はのろのろと身を起こし、素直に杯を傾ける。
口元から飲み下せずに零れ落ちた一筋の水が、唇から細い喉元にまで伝う様を目にして、楊修は目が離せなくなり顔を反らす。
そうして、水を飲んで満足したのか絳攸はその後、楊修がいくら呼びかけても応えることはなかった。
「…貴方も難儀な人ですね」
楊修は思わず溜息をつく。
何もよりにもよって、あんなのを選ぶ必要はないのではないかと他人事ながら楊修は思う。
「手に入らないものほど、きらきら光ってみえるんですかね?」
楊修の問いかけには絳攸は応えない。
聞こえていないのだから、当然だろうと思い、楊修は自分の衣の一枚を脱ぎ長榻で寝転ぶ絳攸にかけてやる。
聞こえていないと分かっているからこそ、口に出せた言葉。
それは自分に向けて発せられた言葉でもあった。
ほの青い光を受けて、衣の隙間から覗く細い手足が浮かび上がる。
それはまるで、月の下で咲く花にも似ている。
月下美人を手に取ってみたいと願っても、自分には見ていることが精一杯で、とても摘むことなどできはしない。
「私は、手に入らないものを欲しがる子供の時期はもう終わってしまいましたからね」
自分は確かに彼に惹かれていたのだと、今更ながらに気がつく。
「いい加減、腹くくってくれませんと、あの方だって黙っていないと思いますけどねぇ」
ここにはいない藍の衣の主を思い浮かべて楊修は呟く。
ああ見えて、意外と養い子馬鹿な吏部の長官が今夜のことを知ったらどうするだろうかとチラと考える。
「さり気なく、報告しても面白いかもしれないですね」
これくらいの意趣返しは許されるだろうと、楊修は思う。
どうせ、朝になれば、今夜あったことなど絳攸は半分も覚えていまい。
酔っ払いとは得てしてそんなものだ。
「柄じゃないんですけどね。こういうのは」
それでも、彼が目を覚ますまでの間はここに居ても良いだろう。せめて、良い夢を見られるようにと楊修は絳攸の普段は巾で纏めている髪を苦しくないよう解いてやる。
「これくらいは、大目にみてくださいよ」

今、この場に居るのは藍楸瑛ではなく、自分だということに密かな優越感を覚え、長榻に散らばった銀糸の一房を手に取り唇を落とすのだった。



2007.10.8 UP

コメント 
捏造、楊修×絳攸第二段。ホントは酒の上での過ちを犯してしまってもイイと思う(待て!)
最初考えていた話は、もっと絳攸が乙女でした。楸瑛の為に手作りの月餅とかまで用意してた。でも流石にそれはやめました(笑)
結構、ぐだぐだな楸瑛は好きです。絳攸を想いつつも、藍家をどうしても優先させてしまう。で、ジレンマみたいな(笑)
良きにつけ、悪きにつけ、ぼんぼんな楸瑛が好きでした。今となっては過去形。

 

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