半夏生
貴陽、藍邸別邸。
庭に面した、離れで二人の青年が酒を呑み交わしていた。
そこに言葉はなく、只、時折蛍が飛び交う様を追うだけだった。
「見事なものだな」
絳攸が感嘆したように漏らす。
「気に入ってもらえたようで良かったよ」
唇の端を僅かに上げて、楸瑛は微笑む。
常に忙しそうな絳攸を『酒を飲み交わさないか』と誘ったのは数日前のこと。
絳攸は、目を通していた書翰から顔を上げると、『暇が出来たらな』とつれない返事を返してきた。
けれど、そう応えたときに、微かに浮かんだ嬉しそうな表情から言葉とは裏腹に喜んでいることが見て取れた。
その表情を見逃すほど、鈍い自分ではない。
「生憎月は雲に隠れてしまったけれどね」
「だが、そのお陰で蛍の光る様がよく見える」
さわさわと、風に揺らされる葉の音と、ふわりと闇夜を照らすように浮かび上がる蛍は幻想的な美しさを醸し出していた。
「まあ、雨が降らなくて良かったといったところかな」
やけに天候を気にする楸瑛に絳攸は分からずに首を傾げる。
「君、気付いてないだろうけれど、今日は七夕だよ」
そこまで言われて絳攸は漸く得心がいった。七夕に纏わる伝説を楸瑛は指しているのだろう。風流人と呼ばれるこの男らしいと絳攸は思った。
「成る程、女官たちが瓜をそなえて、針に糸を通しでもしているのを見かけたな」
本来、裁縫上達の為の行事であるため、裁縫の女神である天の織姫に願をかけるのだと聞いたことがあった。
「そうでなくて、雨が降ったら二人の逢瀬は叶わなくなってしまうよ。それはとても可哀想なことだと私は言いたかったのだけどね」
楸瑛は苦笑して杯を傾ける。
「そんなものは、只の伝説だろう。雨が降ろうが関係ないだろう」
「まあ、そう言ってしまえばそれまでだけれどね」
ひどく現実的な恋人の言葉に楸瑛は相槌を打つ。
「天帝も罪なことをなさると思わないかい?もし私が牽牛の立場だったら、一年に、たった一度の逢瀬しか許されないなど考えられないよ」
楸瑛は、そう言って、絳攸に意味ありげな視線を送る。
「君は、どう思うのかな絳攸?」
「なっ…!」
突然振られた話題に絳攸は予想外の言葉に慌てる。只の伝承を話していたはずが、いつの間にやら、自分たちのことにすりかえられている。
楸瑛は楽しそうに口の端に人の悪い笑みを浮かべて絳攸の答えを待っている。
「それは、毎日遊び暮らしていた奴等が悪い。だから自業自得だ」
絳攸は楸瑛の意図に気がつかないふりをして、言い捨てると幾分乱暴に杯を呷る。
「成る程。それでは私も精々真面目に仕事に励まなければね。君の天帝殿はひどく気難しいからね」
「な、何でそこで黎深さまが出てくるんだ!」
彼の養い親は、大層捻くれた性質のため、決して本人には伝えないが、楸瑛に向けられる背筋の凍るような視線は、
『万が一にも絳攸を泣かせるようなことがあれば容赦はしない』と、言葉よりもよほど雄弁に物語っていた。
「あの方は、別に俺がどうしようと止めはしない」
絳攸はそう言って、一瞬ではあったが寂しそうな表情を見せる。
常に絳攸の中で消えることのない、絶対的な存在。
楸瑛は改めてそれを見せ付けられたようで、自ら振った話題で墓穴を掘ることとなった。
だが、絳攸はそんな子供じみた言動が恥ずかしかったのか、『酒がなくなったな』などと呟いて、新しい銚子に手を伸ばそうとする。
「絳攸」
名を呼ばれ、振り返ると同時に手を引かれる。
突然の出来事に反応できず、足をもつれさせるが、倒れこんだ先は楸瑛の腕の中だった。
「何をする貴様!」
「私は、愛しい君と一年に一度の逢瀬で満足するような出来た人間ではないよ」
絳攸の罵声を軽く聞き流して、かまわずに抱きしめる。
鼻腔を擽るのは、墨の微かな香り。
花街の女性たちの甘い香も悪くないが、楸瑛にとって一番心安らぐのは絳攸の衣から薫る真新しい墨の匂いだった。
「夜は決して長くはないよ」
艶を込めて囁かれた台詞に、絳攸の頬が朱を昇らせる。
楸瑛は長い指で愛しげに恋人の頬の輪郭を辿り、そのまま顎を持ち上げる。
絳攸はゆっくりと近付いてくる整った貌を、ぎりぎりまで見ていたが、唇が重なる瞬間はやはり気恥ずかしくなり瞳を閉じてしまう。
決して口にはしないが、絳攸とて、愛するものと一年にたった一度の逢瀬など、とても耐えられない。
そんなことを考えるくらいには自分は目の前の藍楸瑛という男に溺れている自覚はあった。
夏の夜は短い。さながら、闇に舞う蛍のように。だから、ほんの一時とも無駄にはしたくない。
互いの瞳にその意思を確認すると、雲の切れ間から覗く月からさえ、その身を隠すように
楸瑛は、そっと格子を閉めるのだった。
やはりイチャコラは書いていて楽しいですね〜。楸瑛だったら、天の川泳いででも迷子に会いに行くでしょう(笑)ってか、絳攸こんなにお泊りばっかしてて、黎深さまは何も言わないのかしら…