金星

 

宵の闇も薄まり、そろそろ明けの明星も姿を現さんとしている刻限、ふと絳攸は目を覚ました。

瞳を明けると、自分を抱きこむような形で眠る、整った造作の容貌が映る。
こういう状態は常ならば、気恥ずかしいのだが何故だか今日ばかりは違った。
「絳攸、どうかしたのかい?」
自分が身じろぎしたせいで、楸瑛を起こしてしまったらしい。
「起こしたか。すまない」
気配に敏感な楸瑛が一つ褥で寝ているものが起きて気がつかないわけがない。そう知っている絳攸は謝罪の言葉を口にする。
「まだ、夜は明けていないよ」
そう、囁いて身を起こそうとした絳攸の手を掴み、寝台へと横たえる。
「知っている」
楸瑛の行為を怒る様子もなく、黙って絳攸は身を任せる。
「んっ…」
唇を寄せられ、絳攸はそっとその背中に腕を廻す。
欲望を煽るというよりは、相手を愛しむような接吻。
柔らかく唇をはまれ、悪戯をしかけるようにされると、絳攸も応えようと楸瑛のすべらかな髪に、指を絡ませる。
珍しく積極的な絳攸の態度に気をよくした楸瑛は、絳攸を組み敷くとその接吻を深いものに変える。
さすがに朝から、濃厚すぎる接吻をされた絳攸は絡ませていた髪を引っ張り、抗議の意思を伝える。
「痛いじゃないか絳攸」
「朝から、サカるな!この常春!」
怒気を滲ませた声で、ようやく離れた楸瑛を思い切り睨みつける。
絳攸の怒りなど、楸瑛はどこふく風で楸瑛は楽しそうに笑っている。
「すまないね。昨夜の君があまりに煽情的だったものだから、ついその名残がでてしまったよ」
     ッ!」
怒りの為か、羞恥の為か絶句している絳攸を尻目に楸瑛はそう言って、つと、その唇に宥めるように指をあてる。
「明かりがないのが残念だよ。こう薄暗くては君の顔が見えないからね」
おそらく、その貌は、鮮やかな朱に染まっているだろうから。
「もっとも、そんなに早く夜が明けても寂しいけれどね」
その言葉に絳攸がぴくりと反応する。
夜が明ければ、自分たちは、『個』ではなく『官』になる。
それは茶州へと赴き、漸く紫州へと帰ってきた楸瑛とて例外ではない。
国という止まらない軒を走らせる為、自分たちにはすべき事が山のようにある。
王の側近く遣えるということは、よりよき方向へと国が向かうよう導くべき義務がある。
逢瀬を重ねる時間の何と短いことかと思うのは、楸瑛ばかりではなかった。
「ようやく、こうして君を腕の中に抱きしめることができたのにね」
楸瑛は苦笑して、まるで離すまいとするかのように、背を向けてしまった恋人を抱きしめる。
「お前は馬鹿だ」
「どうして?」
「馬鹿だから、馬鹿だと言ったんだ、この常春頭」
筆よりも剣をとったこの男を戦に行くなと止める術は絳攸にはない。
今回は、秀麗の一言で、禁軍出陣という事態にはならなかったが、次に変事があった際に同じとは限らない。
―いかにして、武力を使わず民を守れるかが、文官として在るものの誇りであり、為すべきことではないか-そう彼女は言った。
だが、それは理想論だ。それならば、何故禁軍などというものが存在するのか。
禁軍は王の直属。王の命によってのみ、動く。
それはとりもなさず、王が国の危機だと判断したときに切る、最強の切り札だ。
自分の大切なものが、凶刃に倒れようとしているときに、話し合いをという愚か者はいないだろう。
「どうやら、ご機嫌が麗しくないようだね…、それは私のせい?」
むっつりと黙りこくってしまった、絳攸を前に楸瑛は問いかける。
楸瑛が、茶州州境から帰ってきたとき、先に宮中へ使いをやっていたのにも関わらず、絳攸は官舎までわざわざ足を運んできた。普段、彼が居る吏部からはかなりの距離がある。
馬を厩舎に戻す間もなく現れた絳攸の姿に酷く驚いた覚えがある。
秀麗を見送り、そして、絳攸の姿を見て、楸瑛は初めて後に残されたものの気持ちに気付いた。
「すまなかったよ、絳攸」
柔らかな髪の一房を掬いあげ、そっと唇をよせる。
  死ぬるを人の誉れとは…」
背を向けたままなので、その表情までは分からないが、ふいに絳攸が詩を諳んじる。
「おおみこころのふかければ、もとよりいかで思されむ…」
「絳攸…」
-死ぬのが人間の名誉とは、王のようなお心の深い方がなぜ、名誉などと思われるのでしょう。
最初からそのようなことを思うはずがないでしょう-
淡々とした調子で詠われた、その詩に絳攸の心を知り、楸瑛は胸が熱くなる。
こんなにも誰かが愛しいと思えたのは初めてのことだった。
「いいか、楸瑛。死ぬのが名誉などと、馬鹿なことは思うな。主上も、秀麗もそんなことは露ほども思っていないぞ」
「ああ、そうだね。主上のこともそうけれど、何より、愛しい君を残して死んだりできるものか」
王にかけた詩で、洩らした絳攸の言葉に気がつかぬ楸瑛ではない。
こちらに向き直った絳攸を思いのままに抱きしめる。
「絳攸、愛しているよ」
いつだって彼には驚かされてばかりだ。
藍家という並ぶもののない名家の直系に生まれながらも、いつもどこか空ろだった自分。当主として望まれるわけでもなく、
さりとて、藍家になくてはならない存在というわけでもない。
ならば、自分の居場所は一体どこにあるのか。
戯れに、花々を巡り歩いても、その心は満たされることはなかった。
だが、その楸瑛の心は彼に出会って、一変した。出自も何も関係なく、ただひたすらに前だけを見つめる姿に、
初めて、その横に並び立ちたいと思えるようになった。
「ところで、絳攸、今の言葉は私への愛の告白と、とっても良いのかな?」
「は?どこをどう解釈したら貴様の頭はそういう方向に行くんだ?!」
目を細め、やにさがった表情で聞いてくる楸瑛はとても女官たちに熱の篭もった眼差しを向けられている張本人とは思えない。
「照れなくても良いよ。君は私が死んだら、身も世もなく嘆き続けるのだろうね」
「誰が、嘆き悲しむか!貴様が死んだら、常春頭が居なくなってせいせいしたと、さぞかし仕事も捗るだろうな!」
「ひどいな、私は君にとってそれっぽっちの存在なのかい」
罵倒されても、楸瑛にとっては子猫が威嚇しているような錯覚を覚えるばかりで、頬の緩みがとまることはない。
「楸瑛、とにかく冗談でも、死ぬだの何だのを仮にも上に立つものが、軽々しく口にするな」
「約束するよ絳攸」
笑いを収めた楸瑛は絳攸の瞳を見つめたまま頷く。
そして、向かいあっている、絳攸にあらん限りの気持ちをこめて、接吻する。
絳攸は、楸瑛に接吻されながら、『きっと自分たちは大丈夫だ』という自身が沸いてくる。
それは、何が、大丈夫なのか、ましてやどうしてそう思うのか、根拠はなかったが、今はそれで良いのだ。と、そう思えるほどには。
『君、死にたまふことなかれ』
-あなたよ、死なないで下さい-、等と言ったらこの男は調子づくだけだろう。
重ねた肌から伝わるぬくもりに、先ほどの腹に何か溜まったような、つかえた感はなくなっていた。
「ところで、絳攸」
「何だ」
長い接吻から解放されて、やや掠れた声で絳攸は答える。
「閨の中での会話にしては、随分と情緒にかけると思わないかい」
途端、艶を込めた声で囁かれ、絳攸は思わず楸瑛から離れようとする。
「あ…っ!」
耳の辺りの薄い皮膚を強く吸われ、びくりと身体が反応してしまう。
「まだ、時間はあるよ。だからもう一度、愛を確かめあおうじゃないか」
「ふざけるな!そんなことは却下だ!」
眉を吊り上げ、楸瑛から逃れようともがくが、力の差は歴然としていている。
楸瑛は、器用に絳攸の抵抗を抑え込みながら、耳飾ごと絳攸の柔らかな耳朶を含む。
その濡れた感触に絳攸はついに陥落する。
いつの間にか、空は白み初めていて、朝の訪れを告げている。
自分たちが、こうしていられるのも後僅かな時間。ならば、まずは、心とは裏腹のその可愛くないことばかり言う、
口を塞いでしまおう。

そう楸瑛は決めて、何度目かの接吻を贈るのだった。
-どんなに、遠く離れたとしても君というたった一つの輝ける星を目指して、自分は帰ってこられるから、
だから心配などしないで、いつでも頭を上げて歩んでいって-

2006.6.19
ラブい双花。元ネタは与謝野晶子から。有名なあの詩です。多少いじってありますが…。やはり恋人としては心配なわけですよ。安全な出陣なんて物はないわけですからね。素直にそれを言えない絳攸(笑)

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