主よ人の世の喜びを 弐 |
優しくて、残酷な人だと思う。天つ才という特殊なものを天から与えられた自分を理解してくれるのは兄だけなのに。どう言えば、兄は解ってくれるのだろう。大切なものなど兄さえいれば十分だというのに。再び考えを巡らせようとしたときだった。軒がガタンと大きく揺れ御者が叫び声をあげた。
ふいに止まった軒に、黎深は不愉快そうに中から声をかける。
「どうしたのだ」
「も、申し訳ございません。子供が道に倒れていまして」慌てて言い訳をすると、『危うく轢くところだったぜ』などと呟きながら、御者台を下り、子供をどかそうとした。
「待て」
窓から一連の様子をみていた黎深は、御者がその子供の手首を掴んだのをみると、ふとした気まぐれが起き、軒を降りてみることにした。
自分の物思いの邪魔をしてくれたのは、どんな子供だというのだ。側に控えていた家人が止めるのも聞かずに、その子供とやらの側に歩み寄る。
「う…」
小さな呻き声をあげたところを見ると、どうやら死んではいないようだ。
黎深はうつ伏せていた子供の顔を手にした扇で返し覗き込む。その閉じられていた瞼がやがてゆっくりと持ち上がると、黎深を真っ向から睨みつける気の強そうな彩を湛えた瞳が現れる。
「ほう…」
がりがりに痩せて、骨と皮ばかりの面においてその瞳だけが異彩を放っている。
このまま、放っておけば、野垂れ死にするのは時間の問題に思われたが、その瞳だけは生きたいと訴えていた。「気に入った。お前を拾うぞ」
黎深はそう言って、枯れ枝のような細い手首を掴む。「嫌だ!」
子供は生意気にもそう言って、この今にも死にそうな身体のどこにそんな力が眠っていたのか不思議に思えるほど、手足をばたつかせ必死の抵抗を試みる。
「面白い。退屈しのぎくらいにはなるだろう」
黎深はひょいっと子供の身体を小脇に抱えると、軒に無理やり押し込めた。「お前、名前は何と言う?」
「こう…ゆ…う」子供はなけなしの体力を使い果たしたのか、軒に乗った後は、疲れきったように四肢を投げ出している。だが、その眼差しだけは尚も警戒心も露に黎深を睨みつける。
「字はどう書く?」
「知らない…字なんて、おそわったことないから」どうやら、そこまでが限界だったらしく、子供は次の瞬間瞳をゆっくりと閉じていった。
いつの間にか、寝息をたてはじめた子供を黎深は興味深そうに観察する。
先ほど開いた軒の窓はまだ、少し開いていたのか、午後の陽射しがキラキラと差しこみ、眠る子供の髪を反射して煌いている。土に汚れて判別が難しいが、どうやらこの国には珍しい銀の髪のようだ。
その様に黎深は幼いころ、兄が宝物だといってみせてもらった硝子玉を思い出した。
指で掴めるほどの小さな玉は、陽光にあてると七色に輝いてとても綺麗だったのを覚えている。
黎深自身気がついていなかったが、その口許には穏やかな微笑が浮かび、先ほどまでの鬱々とした気分も少しだけ晴れていた。
『今度、兄上にお会いしたら、鼠色をした野良猫のような子供を拾ったと報告せねば』
黎深は、これで兄に会う口実ができたと喜びを隠せなかった。