月のさやけき晩に

 

月の綺麗な、静かな晩だった。

貴陽における碧家別邸。

窓から、差込む月明かりと、煌々と灯された、蜀台の明かりを頼りに一人の少年が部屋にて、熱心に書物を読みふけっていた。室内には頁をめくる音が時折聞こえるだけで、その他にはこの少年の集中を乱すものは何もないはずだった。

ところが、ふと妙な感覚を覚え、珀明は顔をあげる。

「なんだか、嫌な予感がする…」
自分は、別に武道の心得があるとか、実は特別に気配に敏感だというわけではないはずだが、この感覚には覚えがある。

妙な成り行きで関わることとなってしまった、自分の人生においての計画をことごとく狂わせてくれた、
あの奇天烈な人物と相対したときの感覚だった。

珀明は、本を閉じ立ち上がると、こういうときは寝てしまうのが一番だ。きっと自分は連日、吏部にて独楽鼠のように働かせられ、疲れているのだ。と、言い聞かせ、蜀台の明かりを消そうとした。

『ヒョロー、ぴー』

ところが、次の瞬間聞こえてきた音色によってその決意が脆くも崩れ去ることとなった。
尚も止むことのない、近所迷惑極まりない怪音を垂れ流す奇天烈男に一発お見舞いしてやろうと、珀明は、部屋を飛び出した。

 

「そこの、笛吹き奇天烈、歩く騒音公害!」
珀明の言葉が聞こえていないのか、尚も独創的な演奏をやめようとしない男に、珀明は彼の耳を引っ張り、耳元で叫ぶ。

「今すぐ、その演奏をやめろ!」
そこまでして、漸く龍蓮は横笛から、口を離す。

「これは、我が心の友其の四、怒りん坊将軍、珀明ではないか。このような時刻、このような場所で会いまみえるとは、
まったくもって奇縁なり」

『この奇縁を祝して、一曲進ぜよう―』と再び、笛に唇を当てようとする龍蓮にすかさず笛を掴むことによって阻止する。

「吹くなと僕は言っているんだ!」
一言一言、区切るようにして珀明は告げる。

「だいたい、こんな時間になにをしているんだ」
「ふむ。それは良き問いなのだ。我が親しき友其の四、珀明に見せたきものがあったのだ」

「僕にみせたいもの?」
まるで、見当がつかず珀明は首を傾げる。
龍蓮は、至極真面目な表情で頷くと、奇天烈な衣装の懐をごそごそと探って、何やら探し始めた。

「珍しく気に入った石を貰った故、そなたに進呈しようと思い、こうして足を運んだのだ」

そう言って、満足そうに笑って、龍蓮は珀明の掌に件の石とやらをのせる。

「宝石じゃないか!」
「うむ。きらきらしていて中々良いと思ったのだ」

珀明は、掌に落とされた小さな翠色の玉を改めてみつめる。それは、どうみても耳飾の片方だったのだ。
小さいが、よくみると細かな細工が施されていて、決して安いものではないことが伺える。

石自体も、削りかすなどではなく、一番美しいと思われる箇所を、この為だけに切り出したのであろうことが伺えた。
このような上等の細工の装身具を身につけられるのは、それ相応の身分のあるものではないのかと思われる。

「お前、これどうしたんだ?」
「我が心の友、珀明よ、気に入ってもらえたのなら、真に良いことをした」
「そうじゃなくて、質問に答えろっ」
気のせいか、これに見覚えがある気がして、珀明はその予感がはずれていて欲しいことを祈り、龍蓮の次の言葉を待つ。

「愚兄その四の、親しき友に貰ったのだ」
聞かなければよかった。珀明は一瞬意識が遠のいた。

「なんで、お前が絳攸さまの耳飾を持っているんだー!
珀明は、思わず龍蓮の衣を掴み、がくがくと揺さぶる。

(まさか、こいつのことだから、絳攸さまにあの怪音波を聞かせて、意識が朦朧となさったところで、奪ってきたんじゃないだろうな)

そんなことをされた日には、どういう顔をして絳攸の前に姿をあらわしたら良いというのか。

「心配せずとも良い。これは、すもも殿が自らくれたものだ」
「本当だろうな?」
珀明は疑り深そうに、じっと龍蓮をみつめる。

「うむ。本当だ。ただし、二つはやれぬと言っていた。大切なものゆえ、片方しかやれぬと。狭量なこととは思うが、大事なものならば仕方がないのだ」
どういう経緯で龍蓮にこれが渡ったのかは不明だが、そのときの話を聞かせろと言ったところで、余計に混乱するに違いないので、珀明はとりあえず納得をすることにした。

「珀に似合うと思ったのだが、いけないことをしたのだろうか」
『珀』と呼ばれ、珀明は思わず顔を赤らめる。黒曜石の瞳が真剣な色を持って珀明をみつめている。

「不意打ちだ…」
龍蓮は、その奇妙な衣装と、おかしな言動に惑わされがちだが、その容貌は素晴らしく整っている。その貌で、そのようなことを言われたら、相手を心憎からず思っていれば、鼓動が早くなるのは仕方のないことだった。

「それは、その、ありがとう」
「珀が喜んでくれたのなら、礼には及ばぬ」

珀明は龍蓮に渡された翡翠の耳飾をそっと握り締める。いつか自分が、絳攸の側に追いつける日がきたら、そのとき改めて、これを身につけようと。

「珀、言い忘れていたことがあったのだ」
龍蓮は、大事なことを思い出したように口を開いた。

「好きだ」
「は?」

「好ましく思う相手には、こう言うのであろう?私は珀のことが好きなのだ」
唐突に告白されて、珀明はどう答えて良いのか返答に窮する。

「僕も、嫌いじゃない…」
「それは良かった」

龍蓮は嬉しそうに笑い、それにつれて頭上に挿した孔雀の羽もゆらゆらとゆれる。
その笑みにつられるように、珀明も微笑む。
ゆっくりと近付いてくる整った貌を前にして、珀明はそっと瞳を閉じる。

淡く輝く光に照らされ、重なりあった二つの影を月だけがみていた。

2006.7.2


残雪さまへの相互記念、捧げもの。初、龍珀。偽者臭っ!こんなものを送られた残雪さまもさぞや迷惑だったでしょう…。
とりあえず、『溺れる魚』のその後編ですね。

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