星ノ棲ム川

 

『人間に恋をした薔薇姫は、その力の全てを失いました。けれど、愛する人に巡り合えた薔薇姫は幸せだったのです。薔薇姫はその愛する人と共にいつまでも幸せに暮らしました』
絳攸は、最後の頁を捲り終わると、ため息をついた。
 
先日、義理の伯父宅にて行われる、恒例の食事会の際に、ふとしたことで、話題になった、お伽話。
誰しも、子供の頃、寝物語に聞いたことのある有名な話だという。
だが、絳攸はそんな話をしてくれる親は、物心ついた頃にはとうに居なかったので、知らなかった。
それを聞いた絳攸の愛弟子である少女は、もし、興味があるならお貸しましょうと言ってくれた。
―そして今に至る。
「薔薇姫か…」
「薔薇姫がどうかしたのかい?」
湯殿からあがった楸瑛が、水を吸った髪を吹きながら問いかける。
「楸瑛、あがったのか」
「ああ、今日は演習で汗を大分かいたから、湯浴みをして生き返った気分だよ」
そう言いつつ、楸瑛は絳攸の手元を覗き込んでくる。
「それは、秀麗殿に借りた書物かい?」
「ああ、皆が知っていてような話なのに、俺だけが知らないというのも少々気にくわなかったからな」
別に知らないからといって、どうということはないのだが、せっかくの愛弟子の好意を無駄にするのも悪く思え、子供向けと知りつつ、目を通してみたのだった。
「それで、読んでみた感想は?」
「別にどうってことないお伽草子だな」
「その割には、どこか思うところがあるようだけど」
楸瑛は、卓子の上に置かれた、絳攸の手を引き寄せて問いかける。
「別に…何も…」
そう、ありふれたお伽話のひとつに過ぎない。不思議な力を持った、人ではない者の話など、幾らでもこの彩雲国に溢れている。
だから、その薔薇姫がその後どうなったのかと疑問に思ったとしても、この話の通り、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。としか問われた方とて答えようがないだろう。
「私は、乳母から、この話を聞いたとき、子供心に薔薇姫を手に入れた男が羨ましかったけれどね」
「絶世の美女だからか」
幾分、呆れたように絳攸が眇めた瞳で、目の前の男をみる。
「それは、否定できないけれどね。けれど、そこではないよ。そんなにも愛された男が羨ましいと思ったのだよ」
その言葉を聞いて、絳攸は黙り込む。
たかが、お伽草子とはいえ、されど、御伽草子なのである。
この話を読んでふと思ったのは、果たして、自分は、全てをなげうってでも愛することができるのかということだった。
「俺は、薔薇姫のような愛し方はできないぞ」
そもそも、自分には彼女のように引き換えにするものとてない。浮浪児だった自分は何一つとして持っていない。黎深に拾われた、ただの幸運な子供に過ぎないのだ。
黎深と出会うことがなければ、自分はこうして生きてはいなかっただろう。だから、自分は生涯をかけて、この恩を少しでも返していくと、あの拾われた日から決めたのだから。
「別に、そんなことは望んでいないよ。君は君なのだから、ありのままで、私を愛してくれればいい」
「楸瑛…」
楸瑛の言葉に嘘は見られず、心底そう思っているであろうことが、窺い知れて絳攸はもどかしい思いに唇を噛みしめる。
自分は、この男に甘えてばかりの気がする。何故、自分なのかと、怖くて問いただせないまま、この関係が心地よくて、楸瑛に頼ってばかりだ。
「すまない…」
「何を謝るんだい?」
楸瑛は、眉をひそめると、俯いてしまった絳攸を気遣わし気に覗き込む。
「俺は、お前に与えてもらってばかりだ」
「かまわないよ。私が与えたいだけだから」
穏やかな楸瑛の声は、すとんと絳攸の心に落ちてきて、ひび割れた大地が水を吸い込むように、もっと、もっと、と望んでしまうのだ。
「楸瑛、俺がお前に与えられるものは何もないかもしれない。けれど、いつでも俺はお前の隣にいるから、疲れたら寄りかかってくれ。俺はそれくらいしか、お前にしてやれることはない」
楸瑛はその言葉に驚いたように、瞳を見開く。
「十分だよ、絳攸。それにね、私とて君から多くのものを貰っている」
楸瑛は絳攸に出会って、人を愛するということに初めて気が付いたのだから。
「お前は馬鹿だな」
絳攸は、顔をあげると珍しく自分から唇を寄せる。
甘いはずの接吻は、どこかほろ苦く、それによって、絳攸は自分が泣いているということに初めて気が付いた。
「今日は随分と積極的なんだね。嬉しいよ。明日は果たして雹でも降るのかな?最も、私としては、いつでも大歓迎だけどね」「言っていろ、この常春!」
軽口に隠して、絳攸の涙には触れないでいてくれるその気遣いが今は嬉しかった。
 
このまま、冷たく深い川の底に二人で沈んでいけたら永遠の幸せとやらを手にできるのだろうか。絳攸は、楸瑛に抱きしめられたまま、卓子の上のお伽草子に目を移す。
それが自分にとっての幸せなのだと、口に出すことができぬまま、絳攸はそっと楸瑛の背に手を回すのだった。


2006.10.14

コメント
夕霧様に、頂き物のお礼として書かせてもらいました。絳攸視点で〜という注文でした。
微妙に暗い話…。薔薇姫は、秀麗の母としての彼女というより、昔話的な意味で。
絳攸は、黎深さま一番というのは変わらないと思うのです。雛が、最初にみたものを〜ではないけど、そんなカンジ。でも恋人としての意味で愛しているのは楸瑛。そこら辺のジレンマが書きたかったのですが…意味不明。反省…。



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