星月夜

   



「知っていたか?百年生きた鯉は、月夜の晩に亀に生まれ変わるのだ」
彩雲国、国王、紫劉輝は真剣な面持ちで、『丁度今日が、その百年目なのだと』
えへんと胸を張って四阿に集まった面々に得意げに告げた。
「余は、先日初めて知ったのだ」
「失礼ながら、主上はそれをどこで耳にされたのですか?」
唖然とする面々の中で、一番最初に立ち直ったのは静蘭だった。
「うむ。先日、霄太子が池の側まで来てな、声を潜めて教えてくれたのだ。これは滅多なことでは人に知られてはいけないことだというのだ」
だから、余が最も信頼するそなた達だけにこの秘密を打ち明けたのだ。と告げられ、残りの二人は顔を見合す。
「それで、そんな事のために俺たちを呼んだのか」
腕組をし、呆れたような口調で絳攸が言い放ち、座っている劉輝を見下ろす。
四阿の卓には酒や、肴が置かれてあり、長期戦の構えであることは確かだ。
大事な話があると言われ、楸瑛と共に来てみれば、出所は明らかにあの狸爺の与太と分かる話ではないか。
「鯉が亀になんて、なってたまるか!」
頭上から、絳攸に怒鳴られ、劉輝はそれこそ亀のように首を竦める。
これでは、どちらが王なのか分かったものではない。
「まぁまぁ、絳攸。本当か、嘘かは我々の目で確かめてみれば、わかることだよ」
「そうなのだ、絳攸。何事も頭ごなしに決め付けるのはよくないのだ」
今にも、吏部に戻ると言い出しかねない絳攸を楸瑛が宥めると、劉輝も楸瑛の援護を受けて、ここぞとばかりに主張する。
「絳攸殿、お忙しいのは分かります。ですが、主上は最も信頼する者たちだけに打ち明けたと仰っているのですよ。たまにはお付き合いしてみるのも一興ではないでしょうか」
にこりと柔和な笑顔を浮かべながら静蘭が言う。
どこまでも、弟大事な元暗黒公子は、その言葉の裏の意味として、それくらの時間の遣り繰りもできないのかと告げているようだった。
「分かった。だが、今夜だけだぞ」
絳攸の返事に、劉輝はぱっと顔を輝かせる。
流石に三対一では分が悪いと絳攸は悟ったのか、憮然とした表情は崩さないままだったが、椅子に腰を下ろすのだった。
 
 
 
夜風が涼しげに頬を撫でる。
昼間の蒸暑さも今は納まり、月見酒と洒落込みながら、時折、池の方に目をやっては、とりとめのない話を紡いでいく。
それは、羽林軍の猛者たちの魔の酒盛りの様子だったり、上司に対する愚痴だったり、と本当にたいしたことのない話だったが、劉輝はそれら一つ、一つを実に楽しそうに聞き、時折、質問を交えながら興味深げな様子を始終崩さずにいた。
水面は静かに夜空の月を写しだしていて、時々魚の生み出す波紋によって、その姿をゆらめかせるが、それ以外はこれといって何の変化も起こらない。
「それで、一体、いつになったら、鯉は亀に変わるんだ?」
酔いが回ってきたのだろうか、絳攸が幾分、呂律が回らない口調で劉輝に尋ねる。
「それは、余も分からないのだ。何刻頃とは霄太子も言っていなかったのだ」
肴を口に運んだ劉輝は困ったように言う。
「絳攸、せっかちな男は女性に嫌われるよ。何事も焦りは禁物だよ」
「誰が、女なんぞに好かれたいか!」
混ぜ返すような楸瑛の台詞に絳攸が柳眉を吊り上げる。
「相変わらず怒った顔も魅力的だね」
「気色の悪いことを言うな!鳥肌がたつわ」
卓を叩いて、楸瑛に掴みかかる絳攸の姿は既に見慣れた光景で、劉輝も静蘭も止めようとはしない。
こういうときの楸瑛は実に生き生きとしていて、心の底から楽しんでいるのが傍からみれば丸分かりといった様なのである。
「そなたたちの仲の良さは分かったから、その辺にしてくれぬか」
「主上、これのどこをどう取ったら、仲が良いようにみえるというんですかね?!この男は俺を揶揄して楽しんでいるだけだぞ」
いまにも雷が鳴りそうな暗雲を背負った絳攸が、反論するが、それを説明すると火に油を注ぐことになりかねないので、その辺はさり気無く流すことにする。
「まぁ、その何だ。ただ、こうして待っているだけでは待ちくたびれるだろう」
劉輝はそういって、卓の上に何やら取り出した。
「硯と筆…それに短冊ですか?」
一体、何をやろうというのだろうと静蘭が首を傾げる。
「うむ。今日は七夕であろう。この日は、願い事を書いて、笹に吊るすと叶えてくれるという言い伝えがあるのだと秀麗に聞いたのだ」
「そういえば、お嬢様が寺子屋の子たちにそんなことをさせていたような気がしますね」
静蘭は重ねられた料紙の一枚を取り、表情を和ませる。
「そうなのかい?それは、中々面白そうだね」
楸瑛も重ねられたそれを取ると、一枚を絳攸に渡す。
筆を取り、紙面を眺めた絳攸は暫し眺めた後、さらさらと書きつける。
「俺の願いは黎深さまと百合さまが、つつがなくお過ごしになられることだ」
ついでに、黎深さまがもう少し、真面目に仕事に取り組んでくると有難いともつけ加える。
「君は相変わらずだねぇ」
本人の性格を現すように几帳面な字で綴られたそれを覗き込んで楸瑛は何とも言えない笑いを浮かべる。
ほんの少し、ほろ苦いものが混じったその声音に絳攸は気付くはずもない。
「何だ、何かおかしいか」
「おかしくはないけれどね」
妬けるなぁと小さく楸瑛は呟く。絳攸が養父たちをどこまでも慕っていることは知っているが、こうして改めて見せられると、なかなか平静とは言いがたい衝動に駆られる。
その遣り取りをみていた静蘭がくすりと小さく笑う。
「私も、絳攸殿の願いと同じですよ。お嬢様と旦那様が息災であればそれだけで良いのです」
「静蘭!余もっ!余もその中に入れてもらいたいのだ!」
静蘭の願い事を聞いていた劉輝は、卓から身を乗り出し必死な面持ちで静蘭に食いつく。
「ええ、もちろんですよ。息災でということは、お嬢様と、旦那様を取り巻く全ての人々が変わらずに過ごせて初めて成り立つのですからね」
含みのない笑顔を向けられて、劉輝は実に嬉しそうに頷く。
幸せ一杯といった雰囲気を醸し出す、劉輝は静蘭に上手くあしらわれたことなど、気がつきもしないが、王の側近二人はやはり食えない相手だと、感心すると同時に、静蘭だけは敵に回してはいけない人物だと再認識する。
「そういう主上は何をお願いするのですか?」
先程から劉輝は何事かを熱心に短冊に書きつけ、ああでもない、こうでもないと唸っていたのだから。
「余、余は、まだ決まっていないのだ。あまりあれこれお願いしても、叶えてくれぬかもしれぬしな」
誤魔化すように言って、劉輝は短冊を後ろに隠してしまう。
「どうせ、主上の願いごとなんぞ、秀麗に嫁に来て欲しいとかその辺りだろう」
杯を煽りながら、諦めの悪いなどと、絳攸は呟いている。
その杯を楸瑛が飲みすぎたとばかりに横から取り上げる。
「まぁ、そんなところなのだ。楸瑛こそ、願いは決まったのか?」
「ええ、私も考え中なのですよ」
「楸瑛の願い事はどういうものなのだろうな。美姫に囲まれたい…と、言っても楸瑛の周囲は常に華やかだしな」
劉輝は顎に手をやり、うんうんと首を捻っている。
「さて、主上、吊るすのは後で各々で吊るすとして、そろそろお戻りになりませんと珠翠殿が心配なされますよ」
酒宴の用意がされていたということは珠翠にも断りを入れてあるということだが、だからといって、そう長い間、戻らない訳にもいかないだろう。
「そうだな。余が戻るまで珠翠も休めぬだろうしな」
劉輝は少し残念そうな表情をしたが、大人しく楸瑛の言葉に従う。
「今日は楽しかった。余の我侭を聞いてくれてありがとう」
その言葉に、居合わせた面々は黙って微笑む。
鯉が亀になるなど、そんなありえない話は、流石に劉輝といえども真に受けるはずもなかった。
だが、それに託けて、誘い出し、ささやかな酒宴を開くくらいは許されるだろうと思った。
案の定、優しい彼等は全てを分かった上で、付き合ってくれた。
「では、藍将軍。私が主上を寝所までお送り致します」
立ち上がった静蘭が一歩前に出て、楸瑛と劉輝に告げる。
意外な申し出に目を瞬かせるが、もちろん否はない。
「そう、では静蘭。主上を頼んだよ」
「はい。藍将軍は絳攸殿を送り届けて上げてください。紅家別邸まで」
静蘭は最後の一言を強調する。間違っても送り先を違う邸にするなと釘を指す。
違う邸――即ち、藍家別邸に連れ込むなと含みを持たせているのである。
「あ、ああ、無事送り届けるよ」
「ええ、お願いします。主上、参りましょう」
静蘭に促されて劉輝は嬉しそうに立ち上がる。
その姿を見送って、楸瑛は卓に突っ伏している絳攸に声をかける。
「さて、私たちも帰ろうか絳攸」
だが、絳攸からの返事はない。絳攸にしては早い配分で杯を空けていたから、日頃の疲れも相俟って潰れてしまったのだろう。それを見て楸瑛は苦笑する。
「私の願いはね、ほんの少しでも良いから、君が紅尚書に向ける想いを私の方に傾けてくれることなんだよ」
楸瑛は、墨色も美しい、流麗な字で綴られた短冊を側にあった枝に結ぶ。
それは、想い人の名も、書いた者の名も認められていないが、ただ一言『自分を見てくれますように』とだけ綴られている。
天はこの短冊をみていてくれるだろうかと、楸瑛は満天の星が散りばめられた夜空を仰ぐ。
暫く、夜空に見入っていた楸瑛だったが、衣の袖がくいっと引っ張られるのを感じて振り返る。
そこには夢の国に旅立ちながらも、楸瑛の衣を掴んで離さない絳攸の手があった。
「勝算のない賭けはしない主義なのだけれど、こればかりはね」
少しは見込みがあると自惚れても良いのだろか。
楸瑛は唇に笑みをのせると、何やら難しい顔をして寝ている絳攸の瞼に唇を落とす。
「夢の中でも、あの方に困らされているのかな」
仕方ないとばかりに、楸瑛は男にしては細い、その体を抱えあげる。
「静蘭とも約束したことだし、今日のところはきちんと君の邸まで送り届けるよ。けれど、次は保障しないからね」
楸瑛は呟いて、起こさないように細心の注意を払いながらゆっくりと四阿を後にするのだった。
 
 
「静蘭、ちょと待ってくれ」
劉輝は雪洞を持って、先を歩く静蘭を呼び止める。
「主上?どうかなされましたか?」
「うむ。これを吊るすのを忘れていたのだ」
劉輝はそう言って、手にした短冊を見つめる。
「ああ、先程熱心に書いていらしたものですね」
静蘭は劉輝の側に寄ると、手元がよくみえるように雪洞の灯りを寄せてやる。
「笹でなくともかまわぬのだろうか?」
「ええ。構わないと思います。肝心なのは想いですよ」
その答えに劉輝は安堵したように、どの枝に結び付けようかと周囲を見渡す。
「ならば、余はこの木にしよう。幼い頃に、清苑兄上と、この辺りでよく遊んだものだった」
懐かしそうに木に触れる劉輝をみて、静蘭も感慨深そうにその木を見つめる。
幼い頃、末の弟はよく庭院の片隅でひっそりと蹲り泣いていた。
それが、自分の姿をみつけると、顔を輝かせまろぶようにして駆けてきたのを今でも鮮やかに思い出せる。
「兄上。私は、短冊に願いを書くのだと知って、何を書こうか迷いました。以前の私ならば、迷わず、兄上に戻ってきて欲しいと書いたと思います。けれど、兄上はまた私の側に戻ってきてくれました」
静蘭は劉輝がぽつり、ぽつりと語り始めた言葉にじっと耳を済ませている。
更夜の庭院は、ひっそりと静まり返っていて、時折風が梢を揺らす音だけが聞こえるばかりである。
「秀麗を妃にという想いは今でも変わりません。けれど、今の私は欲張りなのです。私は、兄上も秀麗も、楸瑛も絳攸も側にいて欲しいと思うようになりました」
いつの間にか、広がった世界。だから、短冊に一つだけの願い事と言われ、悩んだのだった。
「そう。これが今の劉輝の願いなんだね」
そこには、『皆が、幸せであるように』と書かれていた。

静蘭は劉輝が書き綴った短冊の字に目をやって瞳を伏せる。
静蘭の世界が広がったように、劉輝の周囲も僅かの間で目まぐるしく変化した。
兄をひたすら慕っていた、あの小さな弟はいつの間にか、こんなにも大きくなったのだと思うと、寂しいような、それ以上に嬉しいような複雑な気持ちが胸に込み上げてくるのだった。
やはり、劉輝は自分などよりも余程、立派な王の器だと思う。
「きっと天も劉輝の願いを聞き届けてくれるよ」
静蘭は微笑むと、劉輝の頭を撫でる。今では背丈も変わらなくなってしまったが、いつまで経ってもやはり、劉輝は可愛い弟なのだ。
「兄上っ!」
「寝所に戻るまでには、兄上と呼ぶのをやめなさい」
目を潤ませる劉輝を、静蘭は嗜める。
「はい!ですがそれまでは、兄上とお呼びしても良いのですね!」
「仕方がないな。一年に一度くらいは、偶にこういう日があってもね」
折りしも天では、かの牽牛と織姫が一年に一度の逢瀬を重ねている頃だろう。
ならば、年に一度くらいは自分たちも兄弟に戻っても許されるだろう。
何気なく夜空を見上げたときに、尾を引いて流れる星をみつける。
「あっ!流れ星」
つられて上を見上げた劉輝も声をあげる。
「楸瑛たちも、見ているだろうか」
「ええ、きっと見ていますよ。藍将軍のことだから、そういうことだけは抜け目なく願いをかけていると思いますよ」
「楸瑛も早く願いが叶う日がくるといいですね」
「それは、本人の心掛け次第ではないですか」
静蘭はあっさりと切って捨てる。昔から保守にばかり気が回る楸瑛に対して、静蘭は風当たりがきつい。
欲しいものは欲しいと声にだして言わなければ、伝わらない。
ましてや、あの恋愛音痴な絳攸相手では余計だろう。
「さあ、寝所の明かりが見えてきましたよ」
それは、束の間の夢の時間の終息を意味する。
「また、来年。皆で酒宴を開けるといいな。静蘭」
「ええ。来年はもっと素直に伝えれば言いと思いますよ。主上」
王と護衛に戻った二人だったが、寂しさは感じなかった。形は違えど、いつも側にいることの幸せに気がついたから。
そして、また一年後、再び兄弟に戻れる約束を取り付けたから。
会うこともできなかった、今までと比べたら、すごい進歩といえよう。
寝所が近づき、扉の前を固めていた衛士が王の姿をみつけ居ずまいを正す。
衛士によって扉が開かれると、王付の筆頭女官である珠翠が控えていた。
「静蘭、ご苦労であったな下がってよいぞ」
劉輝の言葉に静蘭は一礼をすると、その姿が扉の中に消えていくまで見送るのだった。
 

2007.7.7up

コメント

94249シンメを踏まれたあさ様からのキリリク。
劉輝→静蘭+楸瑛×絳攸とのことでした。静蘭、当サイトでは二度目の登場です。せっかくなので、今回は紫兄弟に重点を置いてみました。静蘭はともかく、清苑の口調が分からなくて偽者臭ぷんぷんです(汗)
あさ様、お待たせした挙句このような出来で申し訳ないです…。






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