綺羅星波止場
しんと静まり返った、夜道。周囲の空気は肌を刺すほどに冷たく、吐く息は唇から漏れるたびに白く姿を変える。
「今夜は一段と冷え込むね」
この分ではそろそろ雪でも降るのではないかと、楸瑛は傍らの絳攸に振る。
「ああ、本当にな」
絳攸もまた、厚い外套の前を合わせるようにして、無数の星が瞬く夜空を見上げる。
国試を控えた、秀麗の家庭教師を引き受けている絳攸は、それにくっついてきている楸瑛と共に、帰路の途中だった。
「まぁ、軒がない以上歩いて帰るのは仕方ないね」
楸瑛は口ほどに困った様子もみせずに肩を竦めてみせた。
邵可邸に向かうときに乗っていた藍家の軒は、夜になって近所で急に産気づいた妊婦がいるとの近所の人の報告を受けて、産婆を呼びに行くという邵可に貸し出してしまった。
当然、その軒に同乗してきた絳攸も帰る為の足を失うこととなった。
かといって、いつまでもうら若き女性が居る邸に留まるのも気が引け、歩いて帰ることを決めたのだった。
「寒くないかい?」
「寒くないといえば、嘘になるが、まあ、耐えられないほどではないな」
楸瑛が、気遣うように声をかけてくる。
けれど、このくらいはどうということがないというのが、絳攸の本音だった。
黎深に拾われるまでは薄い単の衣で、隙間風が入る、あばら屋で凍えて過ごしていたことが普通だったのだから。
「それにしても、見事な星空だと思わないかい?私はね、冬になるとね、思い出すことがあるんだよ」
ふいに夜空を仰いだ楸瑛が、そういえばとばかりに口を開く。
「私が子供の頃、兄たちは貴陽で文官をしていてね。元宵のときくらいしか藍州には戻ってこなかったんだ」
『星が輝き増す頃には戻ってくるよ』兄たちから、そう言い聞かされていた幼い楸瑛は指折りその日を数えていたのだと続けた。
「お前にもそんな可愛い時代があったんだな」
「今となっては、懐かしい思い出だけどね」
隣を歩く端正な横顔をみれば、穏やかな表情で笑っている。
その様をみて、絳攸は胸の奥が微かに痛んだ。
自分には、幼い頃の美しい思い出などない。
親に捨てられてからは、自力で生きていかなければならず、来る日も来る日も筵を引いて、細々と路上で商売の真似事をやっていた。
真夏の陽射しが照りつける日も、寒風吹きすさぶ日も、店を出さないわけにはいかず、筵の前で蹲っていた。
それでも、暑さや寒さはまだ耐えられた。
幼い絳攸が悲しかったのは空腹でも、寒さでもなく、渇いた心だった。
市で店を広げる大人たちは日が暮れると、待つ人のいる家に帰っていく。
子供が走り回るはしゃぐ声や、それを叱る親たちをみかける度に何ともいえない寂しさがひしひしと押し寄せてきて泣きくなった日々を覚えている。
「俺は子供の頃、星がほしかった」
夜空に輝く星でさえ、たくさんの仲間がいるのに、自分には誰もいない。
あの瞬く星の一つでも手に入れられたら、暖かくなれるのだろうか。そんなことを思っていた。
絳攸は俯き、じっと己の掌をみつめる。
「私もだよ、絳攸。私も星が欲しかった」
そっと自分の頬に楸瑛の幾分、かさついた掌が添えられ、絳攸は顔をあげる。
「父は当主として多忙だったし、兄たちも不在。母も他の妻妾を取り纏めることに時間を割かれてしていたし、私の相手をしてくれるのは乳母くらいだった」
楸瑛の深藍の双眸は、思いがけずひたむきな色を湛えて、絳攸の視線を絡め取る。
まるで、絳攸の思っていたことを全て見透かされたようで、絳攸は驚きに瞳を見開く。
楸瑛は確かに飢えることも、寒さに震えることもない環境で育ってきたが、だからといって、全てにおいて恵まれた環境で育ったわけではないのだろう。
「俺は、お前のことを只の苦労知らずだと思っていた。すまん」
「謝らないで、絳攸。私は君とは比べるべくもないくらい、幸せな子供時代を過ごしたと思っているよ」
自分の言動を恥じるように絳攸が言えば、楸瑛は寒さにかじかんだ手を温めるようにそっと包み込む。
「私はもう、空に瞬く星を欲しいとは思わないよ。だって今は、あれほど欲しかった輝きが目の前にあるのだから」
茶化した物言いではあったが、双眸に宿る光は少しもふざけた色は無く、絳攸は頬に朱をのぼらせる。
「どうして、お前は、そう恥ずかしい台詞を臆面も無く言えるんだ!」
「いいじゃないか。本当のことなんだから。君は私の輝ける星だよ」
君はどうなの?と問いかけられ、絳攸は幾度か口を開こうとするが、視線を泳がせ、やがて唇を引き結ぶ。
その頑な様子に、楸瑛は軽く噴出すと、握っていた掌をそっと離す。
離れていく手に絳攸は一抹の寂しさを覚え、目だけで、その様を追うが楸瑛は何の未練もないようにやがて、すっと手をひく。
「まぁ、いいよ。君の気持ちを聞きだすのはまた今度にしておこう」
楸瑛はさっと掠めるだけの接吻を唇に落とすと、咄嗟の出来事に唖然としている絳攸の手を取り、するりと指を絡める。
「お、お前、こんな公道で堂々と!誰かに見られたらどうするつもりだ!!」
「大丈夫。こんな寒い夜は皆、家の中に籠もっているさ。それに見られたところで、私は全然構わないんだけどね」
慌てて、繋いだ手を振り解こうとする絳攸に、楸瑛はしれっと言ってのけ、繋いだ手の力を強いものにする。
「私が寒いんだ。こうすれば、少しは暖かくなるだろう」
微笑んで、楸瑛は絳攸の手を引いて歩き出す。
それは、まるで初めて出会った頃を思い出すような光景で、絳攸も諦めたように肩の力を抜く。
相変わらず、剥き出しの頬に触れる冬の空気は冷たかったが、繋いだ掌は不思議と寒くはなかった。
寄り添うように歩く、二人の姿を夜空の星たちが優しく見守っていた。
2007.11・23UP
冬は寒いから、人恋しくなるんだそうです。まぁ、そんなわけで、甘えたさんな楸瑛です。藍家の事情は多少捏造入っています。迅とかも、従兄弟(だっけ?)なので、一つ屋根の下ではなかったということで…。ここで言っている楸瑛の昔とは7.8歳のイメージで!