切手のない贈り物

 


しとしとと、空からは雨が降り注ぐ。

灰色の空は見上げていても、太陽が覗くことはなく、自分が一体どこからきたのかが、まったく分からなくなる。
「どうしよう…」
この日、何度目か分からない言葉を呟き、絳攸は途方にくれる。
お腹も空いたし、彷徨い続けて歩き疲れた足は、じんじんとしている。
「黎深さま―」
絳攸は、自分を拾ってくれた大切な大切な人の名前を呟く。
そうして、手に持った花をぎゅっと握り締める。
その手には白い紫陽花が握られていて、花は雨に濡れその彩を鮮やかに見せていた。
 
 
きっかけは些細なことだった。
珍しく、黎深と外出することになったときのことだった。
普段は官吏になって間もない黎深は多忙でなかなか一緒にいられない。
その黎深と一緒にいられることが嬉しくて、絳攸は少しそわそわしながら、軒に揺られているのだった。
ふと軒の窓から外を見ると、色鮮やかな花が目に飛び込んできたのだ。
「あ、あの黎深さま」
「何だ?」
少し緊張した声音で、養い親となった目の前に座る人物に声をかけると、ぶっきらぼうともいえる、そっけない声が返ってきた。
「花、あそこに咲いている花!」
「ああ、あれか、あれは食い物ではないぞ」
「分かっています。綺麗ですね。何という花なのですか?」
絳攸の声に面倒くさそうに、ちらりと窓の外へと視線をやる。
「あれは紫陽花だ。うちの庭院にも咲いているだろう」
そう言われてみれば、色は違うが、同じような花が咲いていたかと絳攸は思いだす。
「花を愛でるようになるとは、お前も成長したものだな。うちに来たばかりのときは、庭院にある花をさして食べられるか聞いてきたのにな」
黎深は扇で半分顔を隠しながら、意地悪く拾ってきた当時のことを思い出して言う。
「そのことは忘れて下さい」
絳攸は、ぐっと言葉に詰まり、そのときのことを思い出す。
拾われて、誘拐紛いに連れられて来られた邸は、絳攸にとってまるで別世界だった。
整然と整えられた庭院は、色とりどりの花が咲き乱れ、甘い匂いを放っていた。
今まで、その日の食にも事欠く有様だった絳攸からすれば、あまりに美しい花々だったのでもしかしたら、食することが出来るのかと思い、つい、食べられるのか?と聞いてしまったことは責められることではないだろう。
「それで、紫陽花がどうかしたのか?」
どうしたと問われても困る。
ただ、目を惹かれた。くすんだ様な景色の中、雨に打たれて尚、鮮やかな色彩に目を奪われただけだったのだから。
「えと、黎深さまは紫陽花がお好きですか?」
「別に。嫌いではないな。ただ、あの色は好かんな。紅も藍も私は好きではない」
そう応えて、鼻を鳴らす。
まだ、子供の絳攸にとって、その応えはとても難しいものであったが、そのとき、絳攸は、紅や藍を連想させる色でなければ、黎深は好きなのだろうかと思った。
窓の外に再び、目をやると白い小花を集めたような大振りの紫陽花が静かに雨に打たれていて、これならば、黎深は喜んでくれるだろうかと考えを巡らせる。
(ここからなら、邸からも近いし、今度、分けてもらいにこよう)
 
 
 
自分は何もできないけれど、それでも少しでも黎深に感謝の気持ちを伝えたい。
そう思い、邸を抜けだし、迷いながらも何とか、目的の場所へと辿りつき、紫陽花を手にしたまでは良かったのだが、邸へ帰る方向が分からなくなってしまったのである。
「戻ろうかな」
そう呟いて、後ろを振り返るが、紫陽花を分けてもらった寺は既に絳攸の立っているところからは見えなくなっている。
誰かに道を聞こうにも、雨降りの為か人の通りも耐えていて、時折、軒が泥を跳ね上げながら通るばかりである。
仕方なしに、絳攸は再びとぼとぼと歩いて、何とか廂のある場所をみつける。
それは古びた堂で、何を祭ってあるかは分からないが、取りあえず、雨を凌ぐことくらいはできそうだとあたりをつけると、その場に膝を抱えてしゃがみ込む。
「お腹すいた…」
朝餉を取って以来、何も口にしていない。既に周囲は暗くなりかけていて、空腹と疲労が余計に心細さを募らせる。
黎深がこんなことで喜ぶとは思えないが、室に飾ったら綺麗だろうなと思っただけなのだ。
「俺、また捨てられちゃうのかな」
黎深が無能なものを嫌っていることは知っている。
だから、側に置いてもらえるよう、礼儀作法も勉強も人一倍頑張って、黎深の恥にならないように、努力してきた。
けれど、この方向感覚のなさだけは、どうにもならないのだ。
面倒なことが大嫌いな黎深がわざわざ、探しにきてくれるとは思えない。
気まぐれで拾った子供など、居なくなったところで、気にも留めないだろう。
そう考えると悲しくなり、じわりと涙が浮かび上がってくる。
雨を含んだ衣は濡れて張り付いて、惨めな気持ちに拍車をかける。
「黎深さま…」
「何だ」
頭上から、不機嫌極まりない声が聞こえてきて絳攸はえっと反射的に顔をあげる。
「どうして?」
「まったく、邸から出るなと散々言ってあっただろう。お前の方向音痴は相変わらず目も当てられんな」
呆れたような声音で、相変わらずの嫌味が頭上から降ってくるが、そんなことは気にならないくらい嬉しくて、先程とは違った意味での涙が頬を伝う。
「帰るぞ。こんなところに長居させて、私に風邪をひかす気か」
黎深はそう言って、くるりと踵を返す。
「あ、あの!黎深さま。これ!」
絳攸の呼びかけに、黎深は振り返ると、方眉だけを器用に吊り上げる。
「黎深さまは、いつもお忙しくていらっしゃるから、少しでもお慰めになればと思って。紅や藍は嫌いだと仰ったので、白なら問題ないかと思ったので」
そう言って、おずおずと紫陽花を差し出す養い子を黎深はまじまじと見つめる。
「これの為に、邸を抜け出したのか?」
「はい。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
叱られるだろうかと思い、俯く絳攸だったが、ぽんと頭の上に大きな掌が乗せられる。
「まぁ、良い。摘んでしまった以上、枯らすのももったいない。もらっておこう」
「ありがとうございます!」
黎深の言葉に、ぱぁっと絳攸は表情を明るくする。
喜んでもらえたかどうかは分からないが、黎深は受け取ってくれた。
それだけで、先程まで感じていた疲労も足の痛さも吹っ飛ぶようだった。
先を行く黎深に遅れまいと小走りについてくる絳攸を確認して、紫陽花を受け取った黎深は密かに頬を緩ませる。
だが、生憎後ろをついて行く絳攸にはその表情は見ることはできなかったのだが。





その後、白い紫陽花がどうなったかというと、黎深の室に飾られ、暫くその清涼な姿を楽しませた後、紅家別邸の庭院に挿し木をされ、毎年、雨の多い季節になると美しく咲く。

初めての絳攸からの贈り物として、思い出と共に、紅家当主夫妻の間で語られることとなるのだが、そんなことは絳攸はまったく知らないまま、月日は過ぎていくのだった。
 





2007.6.17 UP

父の日ですねー。ということで。ほのぼの親子話。黎深さまは、影からの報告によって、宮中から仕事も放りだして、迷子探しに奔走したに違いありません。(笑)何だかんだで、親馬鹿だと良いと思っています。



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