国士無双
 
楸瑛はその室の扉を開けた瞬間、彼にしては珍しく固まるという事態に陥ったのだった。
−ここは、吏部侍朗、李絳攸の私邸であって、彼が居るのはまったくもって当然のことだ。
何もおかしいことはない。だが、どう考えてもおかしいことがある。
「久方ぶりに会うが、お元気だっただろうか、愚兄其の四よ」
その言葉を発した人物は、相変わらず奇矯な衣装を纏いあろうことか、絳攸の背に圧し掛かりながら、その台詞を発したのだった。
 
時は少し前に遡る。
常に多忙な絳攸が珍しく、今日は早く帰れそうだと王の執務室で呟いたことが、そもそもの始まりだった。
これには、自分も劉輝も驚きを隠せないでいたが、あの吏部尚書が珍しく、やる気の片鱗を見せたことによるらしかった。
それにより、粗方の書類は滞りなく各部署に届けられ、吏部の官吏たちは泣いて喜んでいたという。
当然、そのような僥倖をみすみす逃すほど楸瑛は鈍くはできていない。
これ幸いとばかりに、半ば強引に絳攸と約束を取り付け、彼の読みたがっていた書が見つかったことを口実に邸を訪ねることに成功した。
 
楸瑛が喜びに満ちて、扉を開けるとそこには書を読みふける絳攸と何故か自分の弟である龍蓮が居たのだった。
「龍蓮、重いぞ、どけ」
絳攸はそう言って書の角で龍蓮の頭をはたくが、本気で叩いているのではなく、悪戯を窘めるかのような、悠長なものだった。
「絳攸、これは一体どういうことなんだい?」
引き攣った微笑みを口の端に浮かべるが、楸瑛の様子など気付いていないのか、絳攸は、漸く読みふけっていた書から顔をあげた。
「ああ、楸瑛居たのか」
「居たのかとは随分だね絳攸」
仮にも恋人に向かってそれはないのではと言いたいが、絳攸に悪気はなく、本当に今、気がついたようだった。
「ふ、このような夜更けに人の家を訪ねるなど、無礼千万、迷惑極まりない」
「龍蓮、どうして君がここに居るんだい?」
歩く迷惑の代名詞のような弟の言葉に反論したいことは多々あるが、そこはグッと堪え、最も聞かなければならないことだけに的を絞った質問をする。
そもそも、絳攸と知り合いだというのも、たった今、知りえたことなのだから。
「ちょっとしたきっかけで、以前こいつが俺の邸に泊まることがあってな」
まだ、国試を受ける前の話だが。と絳攸は付け加えた。
「何と、そのようなことも知らぬとは、やはり愚かだな」
龍蓮は意味もなく勝ち誇ったように胸を張る。
「まあ、別に言うほどの話でもなかったからな。その後色々と忙しいこともあって忘れていた」
それ以来、時々顔を出すようになった。とまるで、近所の猫が餌をもらいに来るような気軽さで絳攸は話を進める。
「ところで、例の書とやらは見つかったのか」
「え、あぁ、そうだね」
楸瑛が手渡すと、絳攸は早速ぱらぱらと頁を捲りはじめる。
「ああ、これだ。探していたのだがずっと見つからなくてな」
嬉しそうに微笑む絳攸の姿は常であれば、楸瑛にとっても嬉しいものなのだが、今夜はそうもいかない。
「絳攸、龍蓮が迷惑をかけたね。今夜は連れて帰るからまたの機会に伺うよ」
せっかくの好機を邪魔されたことに、龍蓮に対してやり場のない怒りを腹の中で、ぶつけるが、当の本人は相も変わらず、絳攸の背にもたれ掛かり、その下手くそな笛を気まぐれに鳴らしている。
「別に帰らなくてもいいだろう。俺はここに居ても構わないがな」
せっかく来たのだから、ゆっくりしていけと、絳攸は言う。
「今、酒と肴の用意をさせている。兄弟水入らずのところを邪魔してすまないな」
絳攸はどこか的のはずれた応えを投げて寄越す。
「そう、ならばお言葉に甘えさせていただくよ」
もはや開き直りの境地に近い状態で、楸瑛は頷くのだった。
 
やがて、絳攸の家の家人が運んできた、酒と肴で奇妙な宴がはじまった。
最も、違和感を感じているのは楸瑛一人のようで、龍蓮は元より、絳攸も『今夜はたまたま三人になったな』
くらいしか感じでいないようだった。
「龍蓮、そればかり食べていないで、他の食材も平均的に食べろ」
絳攸は、口煩い乳母のように、何だかんだといいつつ龍蓮の面倒を見ている。
それを面白くないと感じるのは果たして、自分の心が狭いのか。
いつになく、酒量は進むが、先ほどから少しも酔えないでいた。
独り酒のように杯を煽っていたせいか、状況に気を配るのを忘れていた。
気がつけば、龍蓮は卓にうつぶせて瞳を閉じているし、絳攸も大分酒が回っているのか、とろんとした目つきになっている。
「絳攸、そろそろ休むかい」
「ああ…」
これは一大好機だと楸瑛が、絳攸を伴って寝室に向かおうとしたときだった。
寝ているとばかり思っていた龍蓮が、かっと瞳を見開いた。
「ふ、ここは寝心地があまり良くない。酒々しい匂いに満ちている」
龍蓮の行動に驚いた絳攸が、身を預けていた楸瑛を突き飛ばすようにして距離を置く。
「龍蓮、寝ていたんじゃなかったのかい?」
「はて、寝ることと目を閉じて意識を束の間飛ばすこととは異なること。それとも愚兄らは、私が寝ていないと困ることでもあるのだろうか」
「い、いや、そんなことはまったくないぞ!」
絳攸が幾分焦った口調で、龍蓮に捲くし立てる。
「そうか…。なれば頼みがある、愚兄の親しき友殿よ」
「な、なんだ」
「どうも最近寝つきが悪く困っている。常ならば目を閉じて十も数えれば眠りの淵に落ちるのだが、最近は百ほど数える間ではないと眠りの淵に落ちることができないのだ」
龍蓮は、幾分悲しげに瞳を伏せて、呟く。
楸瑛はそこまで聞いて、嫌な予感に襲われる。
そもそも龍蓮と関わって良い思い出というのは彼が生まれてこの方、一度もないのだから。
「寝付くまで添い寝をしてほしいのだ」
途端、楸瑛は凍りつく。
幼い子供ではあるまいし、添い寝など当然絳攸とて『ふざけるな!』と一刀の元に切り伏せて終わりだろう。
「俺でいいのか?」
ところが、絳攸は戸惑いながらではあるが、龍蓮に再び確認する。
龍蓮はコクリと黙って頷く。
「ちょと、待ちなさい龍蓮。不眠症というわけではないのだから、そのようなことは聞けないね。一人で寝られるだろう」
さすがに、この展開は黙っていられず、楸瑛は口を挟まずにはいられない。
「楸瑛、そんな言い方があるか!仮にもお前の弟だろう」
予想外な方向からの反論を喰らい、楸瑛は唖然とする。
「確かにお前の弟は変人だ。だが、天つ才であろうと、なかろうと人恋しいときもあるだろう。兄だったら、それを察してやったらどうだ」
「絳攸、ちょっと待ってくれないか、君、何をそんなに熱くなっているんだい?」
「う、うるさい俺は熱くなぞなっていないぞ」
ここに至り、楸瑛は一つの結論に辿り着く。
もしや、絳攸は、彼の養い親殿の兄に対する執着ぶりをみて育っているから、兄弟の情というものに対して、多大なる勘違いをしているのではなかろうか。
そういえば、自分たちが仕える王も兄に対して並々ならぬ思いを傾けているなと思いだす。

もしかしたら、絳攸が先ほど龍蓮に『自分でよいのか』と確認したのも、裏を返せば楸瑛でなくて良いのか?という意味なのだろうか。
楸瑛はくらりと思わす立ち眩みを覚える。
(絳攸、君やはりどこかずれているよ)
「君ねえ、方向感覚だけでなく、思考までも迷子になったのかい?」
世の中の兄弟全部が全部ああいった例と一緒だとは思われたくなくて、楸瑛は思わずそんな言葉が口をついてでる。
だが、それは絳攸の気にしている『方向感覚』のことをまた揶揄されたと受け取ったのか、怒りに眉を吊り上げている姿が目に飛び込んできた。
「もう、いいっ!貴様とは話にならん!龍蓮いくぞ!」
「ちょ、待ってくれないか絳攸っ!」
しまったと思ったときには、とき既に遅く怒りに満ちた背中と、その後を奇怪な音色を奏でながら、嬉しそうについていく龍蓮の姿があった。
結局、楸瑛は絳攸の家人が用意した室へと案内され、まんじりともせずに夜を過ごし、
絳攸の寝室に異変が在れば、直ぐ駆けつけるべく、微かな物音も聞き漏らすまいと長い夜明けを待つのだった。

2006.8.26
1万HITリクの第二段で、絳攸にベッタリな龍蓮と、それをみて、いつの間に!と驚く楸瑛というものでした。彩では常識人が苦労するという話(笑)龍蓮は天つ才ですが、絳攸は天つ然なので(笑)平たく言って楸瑛不幸話(笑)書いていて目茶楽しかったです!(鬼)


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