真澄鏡

 

重陽の節句も過ぎ、宮中の浮き足立った様子もこの頃漸く、常とかわらぬ様子を取り戻したかのような、この日、碧珀明は思いもよらぬ出来事に遭遇した。
 
「あっ、しまった」
忘れ物をしたのを思い出し、軒を門のところに待たせたまま、吏部へと引き返す。退出したのは珀明が最後だったから、明かりは消えている。
それでも戻ろうとしたのは、敬愛する絳攸から、『参考になるから、読んでおくといい』と
言って、進められた書があったからだった。
「よりにもよって、何故、あれを忘れるんだ」
幾分、焦った口調で独り呟く。
自分も神童の呼び名に恥じない程度には、かなりの書物に明るいつもりだったが、宮中に仕えるようになって、上には上がいることを思いしらされた。
(絳攸さまは、やはりすごい方だ)
そんな感動と尊敬を込めて、その書を受け取ったにも関わらず、先輩官吏たちの使い走りをしているうちに、忙しさのあまり、その受けとった書を文机の下に置いたことをすっかり忘れてしまったのだった。
無人となった、吏部の室内へ入り手蜀の明かりでもって、目的のものを探し出す。
「と…ここに置いたはずだけど…」
暫く探すうちに、漸く目的のものを探しだし、珀明は安堵の息をついた。
書物を大事そうに、布で包むと、珀明は御者が待っている、軒へ向かうべく、吏部を後にしようとした。
そのとき、ふと話し声が聞こえた気がして、周囲を見渡した。
『…から言っているじゃないか』
『断ると言っているんだ!』
侍朗室の方だろうか。先ほど、退庁の挨拶をしようとしたら、絳攸は不在だったので、戻ってきたということだろうか。
「先に退出させていただく旨をご報告した方がよいだろうか?」
暫し、考え込むと珀明は侍朗室の前に立ち、中の様子を伺う。
「こう…」
言いかけて珀明は扉がほんの少しだけ開いていることに気が付く。
(こんな夜更けに誰と話していらっしゃるのだろう)
もし、大事な案件について話しているようなら、このまま帰ろう。
そう思い、珀明は中の様子を伺う。
すると室には、王の双花菖蒲の片割れである、藍楸瑛の姿があった。
 
 
「相変わらず、つれないねえ」
「つれてたまるか、この常春がっ!」
楸瑛の揶揄に絳攸が一刀両断する。
「だいたい、お前と邸で酒を飲み交わして、ろくな目にあったことがない」
「信用がないね」
楸瑛は、楽しそうに笑う。
「けれど、今回は純粋なお誘いだよ。天地神明に誓っておかしな意味はない」
胡乱な眼差しを受けて、楸瑛は降参の意味か、両手をあげる。
「それに、君はこのところお疲れのようだ」
そう言って、楸瑛はそっと絳攸の髪に手を伸ばし、優しい手つきで梳く。
「別に、それほど疲れてはいないつもりだがな。ただ、この書翰の山をどう裁くかを考えると頭が痛いな。この所、重陽の節句の準備もあって、こちらの仕事に時間を割けなかったから、少し溜まっている書翰に目を通しておかないと」
絳攸はそう言いつつも、楸瑛の手を振り払うことはなく、猫が目を細めるような表情をして、するに任せている。
それは、常に冷静な態度を崩さない、鉄壁の理性と称される吏部の副頭目である侍朗の顔ではなく、李絳攸としての表情で、思いがけず柔らかなものだった。
(そりゃ、絳攸様と藍将軍は同期でいらっしゃるし、共に花を下賜された間柄でもあるのだから、仲の良いのは当たり前だ)
珀明は、初めてみる絳攸の表情を見て、そう心の中で無理やり納得させる。
「そう。ならば仕方ないね。君を止める権利は私にはないから、今夜は引こう」
幾分、残念そうな響きを残して、楸瑛が折れる。
「ああ、この埋め合わせは必ずするから、すまないな」
「では、邪魔をしないように、私は退出するよ。あまり無理はしないように」
そう言って、楸瑛は絳攸を引き寄せると、その唇にそっと接吻を落とす。
絳攸もそれを受けて、ゆっくりと瞳を閉じる。
蜀台の明かりを受けて、橙色に染まる室内で行われた、その光景はまるで、一枚の画のようで、珀明は暫し、驚きもなにも忘れてぼんやりと見惚れた。
やがて、楸瑛が席を立つ音がして、珀明は慌てて、近くの柱の影に:隠れる。
扉の軋む音と共に、室内から出てきた楸瑛は、ちらりと後ろを振り返る。
珀明は見つからぬように、首を竦め、体を小さく縮こませる。
だが、楸瑛はそれきり何もせずに、何事もなかったかのように、回路の暗闇へと消えていった。
気づかれたのだろうか。しかし、楸瑛は何も言ってこなかった。ならば、見つからなかったということだろうか。
珀明は未だ、混乱した頭のまま、結局声を掛けそびれて、ふらふらと、宮中を退出したのだった。
(絳攸さまと藍将軍がなぜ…)
どうやって、軒に乗り込んだのか、まったく珀明は覚えていないが、気が付くと、自邸の前にいて、軒が止まる微かな振動で現実へと引き戻されたのだった。
主人の様子が、おかしいことに気が付いた家人が、人払いをしたのか自室に辿りつくまで、ほとんど、誰とも会うことはなかった。
室内へ入り、ほっとしたのも束の間、ここに居るはずのない人物を見つけて珀明はぎょっとする。
「我が、心の友、珀明遅かったではないか。珀明を待つうちにできた曲を、しがない宮中勤め人珀明に披露しよう」
招いた覚えなどない相手は、そう言って笛を唇にあてる。
「やめろ!この孔雀!今、一体何刻だと思っているんだ!」
慌てて止めに入り、珀明は声を荒げる。周囲への迷惑を考えるという常識が、この男にはまったく欠如しているらしい。
「ふむ。せっかく名曲が浮かんだというのに。風流を解さないとは困ったものだ。曲目は、『珀明と儚き夕べ』というものなのだが」
龍蓮は心底残念そうに言い、くるくると笛を弄ぶ。
珀明は龍蓮の言う、曲目とやらに絶句する。そのまま、驚いたように瞳を瞬かせながら、龍蓮を見つめる。
「お前、何を知っているんだ」
「何も。ただ、推測はできる。大方、愚兄その四と、その友人が接吻している現場でもみたのであろう」
龍蓮はそう言って、突然手を伸ばすと珀明の頭に手をやり、笛を持っていないほうの手で、ぐしゃぐしゃと柔らかな髪をかき回す。
「何をするんだ!この馬鹿龍蓮!」
すっかりぐちゃぐちゃになってしまった髪を押さえながら、抗議の声をあげる。
「やはり、珀明は怒りんぼう将軍の方が似合っている」
龍蓮は満足そうに一人頷く。
「何だ、それは。僕は、別に誰かれ構わず怒ることはないんだからな!怒らせるようなことをする、お前がいるから…」
そこまで言って、珀明の頬を暖かいものが伝う。
雫となってこぼれたそれは、止まることなく珀明の頬を濡らしていく。
「あれ、何だ、これ…」
止めようとしても止まらず、珀明は手で顔を隠すようにして、慌てて手拭を探すが、こんなときに限ってみつからない。
自分でも感情の奔流を抑えることができず、涙が止まらない。
すると、ふいに視界に派手な彩りに染められた布が飛び込んできて、龍蓮に抱きしめられていると気が付いた。
「泣きたいときは、泣きたいだけ泣くと、あとは自然と止まるだろう。そういうものだ。だから、安心して泣くが良い」
「何だそれ…」
安心して泣けというのは、何だか変な言いまわしな気がするが、そんなことを一々気にしていたら、龍蓮と付き合ってなどいかれないだろう。
それに、抱きしめられた腕の中は妙に心地よくて、涙がとまるまで泣いてみようかと言う気にさせられる。
「僕は、絳攸さまが好きだったんだ…。ずっと憧れていた…」
いつの間にか、自分の中での完璧な絳攸像というのが出来上がっていて、今夜みた出来事はそれを打ち砕くのには十分だったから。だから少し混乱してしまったのだ。
自分のみたことのないような表情で話していた、絳攸の姿は、李侍朗としての姿よりもずっと自然で、本来はあれが素なのだろうと思わされた。
「絳攸さまと藍将軍は、やはり恋仲なのかな…」
龍蓮は何も言わない。きっと彼の目には全てが映っているのだろうが、あえて珀明のことを思って、何も言わないでいてくれるのだろう。
「だが、今でも好きなのだろう」
「そうだな。含んだ意味じゃなく、純粋に今でも好きだ」
絳攸が選んだ相手が、同性だったというのは驚きだったが、それを知っても憧憬の念は微塵も動かない。
「私は、珀明の曇りのない真っ直ぐなところが好きだ」
「は?」
「今は、分からずとも良い」
龍蓮はそう言って、再び珀明の髪をわしゃわしゃと掻き回し、鳥の巣のように絡まってしまった柔らかな髪を今度は梳いて整えるという、珀明にしてみれば、何がしたいのかまったく分からない行動にでた。
けれど、残っていた胸の痛みは、龍蓮と噛み合っているのか、いないのか、いまいち疑問の残る会話を続けるうち、拭われ、微かな疼きとなるまでになった。
明日、絳攸と顔を合わすことが会っても、きっと自然な受け答えができるだろう。
「珍しく、お前が居てくれてよかったと今夜は思える」
珀明は、腫れぼったい瞼を閉じて、力を抜き、素直に龍蓮の胸に身を預ける。
絳攸に対する想いが恋だったのか、どうかは分からないが、儚く散った想いのかわりに、淡い何かが、心の中から芽生えてくるのを、ぼんやりと思った


2006.9.23


コメント
一万HITリク企画、ラストは双花と龍珀。というより、珀明くん中心(笑)はっくんと絳攸の違いで気をつけているのは、はっくんは絳攸ほど、言葉使いが固くないということ、絳攸よりも素直かなーとか。その辺。龍珀難しいですよ。でも書いてて楽しいです。



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