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どうやら、風邪をひいたらしいと、体の不調を絳攸が覚えたのは今朝方のこと。
いつものように、出仕の支度をすべく、寝台から起き上がろうとして、それは叶わなかった。身を起こした途端、襲いくる眩暈に、どうにもならずそのまま寝台に伏すこととなった。
とりあえず、出仕を取りやめることを別棟にいる養い親兼上司である、黎深には伝えおいた。
そこまでが、絳攸の記憶する今朝方の記憶。
その後は、昏々と眠り続け、気が付けば、格子窓からは茜色の陽がさしている。
「もう夕暮れ時か…」
漸く、目を覚まし、室内の明るさから逃れるように、寝台の紗幕の内へと寝返りを打つ。
傍らにある卓子には、薬湯と思しきものが置いてあり、独特の匂いを放っている。
「一体、今頃吏部はどうなっていることやら」
ただでさえ、決済待ちの書翰で溢れているというのに、このうえ、自分が休んだとなれば、
出仕した暁には、どれほどのこととなっているのだろう。
想像するだけで、熱があがりそうだった。ため息をつき、現実から逃れそうと再び瞳を閉じたときだった。
「お前が心配しようがしまいが、書翰が減るわけではないだろう」
ふいに、耳に飛び込んできた聞きなれた声に、絳攸はもしや幻聴かと瞳を見開いた。
「黎深さま…?」
「当たり前だ。他に誰がいると思っている」
不機嫌そうな黎深の声に絳攸は、思わず、寝台から身を起こそうとしたが、ほぼ一日中眠っていた体はいうことを聞かず、寝台に崩れ落ちる。
「馬鹿者、何をやっているのだ」
扉の近くにいた黎深は、そのままつかつかと歩みよると、絳攸の頭を愛用の扇でぴしりと打ちつける。
そして、畳んであった、着物を手に取ると、絳攸に投げつけた。
「それでも羽織っていろ」
「はあ…」
苛立たしげな声と共に、投げつけられた着物を絳攸は受け取り、今度は体に負担をかけないようにゆっくりと起き上がり、それを肩から羽織る。
「あの、黎深さま、何故こちらに?」
「私の邸だ。どこに行こうと私の勝手だろう」
確かに、そう言われてしまえば、返す言葉がないのだったが、普段滅多に足を運ばない離れに黎深自ら来るとは、何か急な用向きでもあるのだろうか。
「もしや、吏部で何かありましたか?」
「あったら、今頃、こんなふうに帰宅はしていないだろうな」
傍らの椅子に腰掛け、優雅に扇をゆらす黎深を横目で見やり、『例え何かあったとしても、ご自分が帰りたければ構わずにお帰りになられるでしょう』と言いかったが、常でさえ、この養い親には勝てないのに、うまく頭が働かない今では万に一つの勝ち目もなさそうなので、やめておいた。
「申し訳ありません…」
突然、謝罪の言葉を口にした養い子を黎深は扇を揺らす手を、ほんの一瞬だけとめ、瞳を眇める。
「何が、申し訳ないというのだ絳攸?」
「その…、自己管理が足りませんでした。吏部の皆にも迷惑をかけたかと…」
ぽつり、ぽつりと口を開く、絳攸の俯いたつむじのあたりを眺めていた黎深だったが、それにも飽きたのか、格子窓の外へと視線を向ける。
「当たり前だ。お前の本職は何だ。吏部侍朗だろう。いつからあの洟垂れの子守が本職になったのだ」
「申し訳ありません」
このところ、確かに絳攸は王の側に詰めていることが多かった。政務に本腰を入れるようになったとはいえ、王はまだまだ、絶対的な経験地が足りない。
だが、飲み込みの早さには、絳攸さえも目を見張るものがあり、できる限りの手助けをしてやりといと思っている。
それが、信頼に応える方法だと思っているからこそ、つい、無理を押してでも王の側についていたくなってしまうのだった。
「ふん。まぁいいだろう」
王の側にいくなと言われるかと思っていた絳攸は黎深の言葉に少々ほっとした。
何故だか、今日の黎深はあまり虫の居所が良くないようだから、大人しくしているのが一番だろう。
「ところで、絳攸、それは飲んだのだろうな」
黎深が扇で指し示した先には、先ほど絳攸も目にした薬湯があった。
「いえ、その…先ほどまでずっと寝ていたものですから」
まさか、あの味が苦手で、飲んでいませんなどとは、あまりに子供じみていて言うことができず、もっともらしいことを述べる。
「ふむ…。それは百合が手ずから持ってきたものだが、まさか飲めないとは言わないだろうな、絳攸?」
「百合様が?!」
「そうだ。薬湯を持っていったが、寝ているようだったので置いてきたと言っていてな。私にみてきてくれと頼んできたのだ」
漸く、絳攸は得心がいった。黎深がここに来たのは、自分を心配してのことではなく、百合姫に頼まれたから、仕方なく、足を運んだのだろう。
そうでなければ、別に絳攸が床に伏していようがいまいが、黎深にとっては何等関係のないことであろうから。
『少しは、気に掛けて下さったのかと思ったのだけれどな…』
ほろ苦い気持ちと共に、卓子に置かれた薬湯を見つめる。
「どうした、絳攸。飲まないのか。まさか百合がお前の為を思って持ってきたそれを飲まないなどとは言うまいな」
「の、飲みます!」
慌てて、椀を掴むと、鼻先をツンとした匂いが刺激する。
絳攸は一瞬、躊躇するが、黎深の視線を受けて、一気に喉へと流し込む。
ゴクリと静かな室内に、絳攸が薬湯を嚥下する音だけが聞こえる。
「飲みましたよ。これで、文句はないでしょう!」
口元を拭って、半ば自棄気味に絳攸は言う。
口の中に残る苦味に、眉を顰めざるをえない。
「ふ、良い子だ。良い子にはご褒美をあげなければならないな」
黎深はそう言うと椅子から立ち上がり、寝台の縁へと移動する。
「れ、黎深さま?」
一体、何事かと目を白黒させる養い子を面白そうに眺め、頤に手をかけると薄く開いた唇に自分の唇を重ね合わせる。
「ん…っ」
熱い口腔内を満遍なく舌で蹂躙する。
最初は驚いたように逃げ惑っていた絳攸の舌もやがて、執拗な追い上げに観念したのか、おずおずと絡めはじめる。
「はっ…ァ」
互いの舌が離れたときには、熱のせいばかりではなく、薄っすらと紅潮した頬をした絳攸がいて、くたりと力の抜けた身体を黎深に凭れ掛からせる。
「これで、苦味はとれただろう」
扇に隠されてその口許は見えないが恐らく、大層意地の悪い笑みを浮かべているであろう、養い親に対して、絳攸はただ、ぱくぱくと口を開閉させるだけだった。
「後は、大人しく寝ていろ。さもないと、本気で寝かしつけるぞ」
あながち冗談ともいえぬ、黎深の台詞に、絳攸は慌てて上掛けを顔まで引き上げる。黎深がやるといったら、本気でやることを身を持って知っている絳攸は身を縮こませて、蓑虫のように掛け布に包まるのだった。
(余計に熱があがりそうです。黎深様)
絳攸の葛藤など、どこ吹く風で、黎深は悠々と絳攸の寝室を後にする。
「さて、私の可愛いアレに風邪などひかせてくれた、洟垂れにはどう仕置きをしてやろうか」
思案するように呟く、黎深の口許には凄絶な笑みが浮かんでいた。
2006.10.14
コメント
禁断の親子愛…ついにやってしまいました。黎深さまは常に絳攸を掌で転がしています。でも絳攸はわかっていて転がされているから、それはそれで幸せなのかも?!黎深さまは飴とムチの使い分けが上手だと思います(笑)