世界中の微笑み集めてもかなわない






梅雨の中休みか、珍しく好天に恵まれた日、照らされる日差しは、確実に夏の気配を運んできている。

店から出た絳攸は手を翳して、眩しさに瞳を細めた。
「黎深さまは気に入ってくださるだろうか」
彼にとっては、ここ一番の悩みの種である義父への贈り物を大事そうに懐に抱え、ぽつりと呟いた。
毎年、この時期は絳攸にとって、厄介な悩み事が発生する。
どこの商業主義者が始めたことだか知らないが、『父親に感謝する日』という風習が近年広まってきたのだった。

黎深に拾われてから早十年以上が経過しているが、感謝の念は一日たりとも忘れたことのない絳攸である。
今、こうして生きていられるのは黎深のお陰なのだから、例え多少(否、大いにかもしれないが)困った人であっても、変わらず大切な人であった。
だから、その感謝の念を形にして表せるのはいいことなのだろうと思う。
けれど、問題なのは贈る相手である。
名門中の名門である彩七家の紅家当主という肩書きを持つ、彼の養い親は手に入らないものなどないといっても過言ではない。
どれほど、高価なものであろうと、珍しいものであろうと黎深が一言漏らすだけで、血眼になって探し出し差し出してくる輩は大勢いるだろう。
そんな彼の欲しいものなど、まったく検討がつかないというのが目下の悩みであった。
今年こそは、そんな悩みとおさらばしたい思いつつも、日々の忙しさに追われて、準備を始めたのは新緑の眩しい季節の頃だった。
それも腐れ縁であるところの藍楸瑛から『今年の贈り物は決まったのかい?』と聞かれてはたと思い出したいう、情けない有様だった。
「そんなに心配そうな顔をしないでも、君からの贈り物だったら、あの方は何でも喜んでくれると思うよ」
横合いから、見かねたのか楸瑛が気遣うように声をかけてくる。
「そうだといいんだがな」
絳攸が手にしているのは、袱紗に包まれた扇。
先ほど、仕上がったものを見せてもらったが、芸術品に疎い絳攸でも精緻な細工の施された扇は見事なものだと感嘆したものだった。
考えあぐねた絳攸は、潔ツや百合にも相談を持ちかけたのだったが、二人とも返ってくる言葉は同じで、そんなに悩む必要はないという何とも曖昧な意見だったのだ。
そこで、絳攸は最後の手段とばかりに楸瑛に相談をしたというわけだ。
「どういう形であれ、君が私を頼ってくれたのは嬉しいよ」
「まぁ、今回のことは感謝している」
常々、常春だ、何だのといっているが、この隣に立つ素晴らしく見目の良い男の趣味は確かなので、頼って正解だったというわけだ。
この店とて、楸瑛の口添えで既に引退したという老主に引き合わせてもらい、何とか頼み込んで、彩雲国広しといえどもたった一つしかない扇を作りあげてもらったというわけだ。
「私も久々に見たけれど、やはり先代の作ったものは趣があるね」
楸瑛は感心したように指を顎にあてている。
「今日は付き合わせて悪かったな。後日この礼はするから、それで貸し借りはなしだ」
「どう致しまして。こちらこそ休みの日だというのに、君に会えるなんて望外の喜びだよ。今度は、もっとゆっくり色々なところを回ろうね」
「ああ、そうだな。庶民の生活を見ることは官吏として大切なことだからな。中々生の声というのは宮中までは届かないしな」
絳攸の答えに楸瑛は一瞬、何とも形容しがたい表情をした。
まるであてがはずれたとでも言いたげな情けない表情だ。
何か、自分はおかしなことをいっただろうか。と絳攸が眉を微かに顰めると、楸瑛は小さく吐息を漏らす。
「…まぁ、そうだね。そのときはぜひ、二人きりでお願いするよ」
楸瑛は力なく笑って、軒を待たせてあるからといって絳攸とは反対方向へと姿を消す。
雑踏に紛れ、見えなくなった楸瑛の姿を何とはなしに見送っていたが、気がつけば日はもう絳攸の頭の真上である。
思いの他時間を食ってしまったと絳攸は、店のすぐ近くに待たせていた軒へと慌てて乗り込むのだった。
 
 
一方、時を同じくした、ここ紅本家別邸では、値段のつけようがないほど、瀟洒な細工の施された調度品に囲まれた室で、一人の男が苛立たしげに手にした扇をぱちりぱちりと開閉を繰り返していた。
「黎深、君鬱陶しいから」
冷茶を運んできた百合が盆を卓に置くなり、そう口を開いた。
本来であれば、百合とて紅家当主の奥方であるのだから、給仕の真似事などする理由はないのだが、家人が主人の暗雲立ち込める様子をみて室に近づくのを泣いて嫌がった為、可哀想に思った百合が自ら、茶を運んできたというわけである。
「何が鬱陶しいというのだ」
「何って、君の存在そのもの?」
今更、何を言うのだとばかりに、あっさりと言い切り、百合は整えられた白魚のような指で、卓に置いた茶に手を伸ばす。
「君ねえ、絳攸だって、もう子供じゃないんだから、偶の休みくらい好きにさせてあげなよ。いいじゃんお友達と出かけるくらいさあ」
「私がいつ、悪いと言った」
黎深は不機嫌さ極まりない声音で百合の方へと向き直る。
百合は我が夫ながら、凶悪な顔だなと口には出さないが、こっそり胸中で呟く。
「藍家の若様とおでかけだってことが、余計に気に入らないんだろう。でも絳攸はちょっとだけ出かけてきますって言ってたんだから、すぐ戻るって」
これではまるで、黎深の方が子供ではないか。まったく手のかかることだと百合が天井を仰いだとき、室の外から、家人が絳攸の帰宅を告げた。
「良かったね。絳攸帰ってきたってさ」
「ふん」
相変らず素直でない夫は鼻を一つ鳴らしただけだったが、その横顔に少しばかりの笑みを見つけ、本当にどうしようもないなと百合は肩を竦めるのだった。
 
 
 
主人の不機嫌の原因を正しく知っていた家人は、これで救われるとばかりに、絳攸が室に向かうのに合わせて、足を運びながら当主の機嫌があまりよくないようだと言葉を選び伝える。
「百合さんが戻ってきているのに、機嫌が良くないなんて一体何があったんだ」
だが、家人は困ったような表情を浮かべるだけである。聞かれても困るというのが本音であろう。
室の外で声をかけると、扉をおそるおそる開ける。
「黎深さま、只今戻りました」
「お帰りなさい絳攸。外は暑いわね」
百合は応えない黎深に変わって、空いている椅子の一つを指し示し、優雅な手つきで、茶器から器へと冷たい茶を注ぐ。
「ありがとうございます」
確かに、今日は薄っすらと汗ばむ陽気だった。
絳攸は喉の渇きを潤す間も惜しく急いで帰ってきたので、差し出された茶をありがたく受け取る。すると百合からは、ふわりと良い香りが立ち上り絳攸の鼻腔を擽る。
「百合さん、それって」
「そう。絳攸がくれたものよ。良い香りね」
丁度、一月ほど前に絳攸から、百合へと母の日の贈り物として、贈った百合の花の、香だった。
「使ってくれてるんですか、ありがとうございます」
絳攸は少し照れたように頬を染める。
「ふん。絳攸、お前はまったく早朝からどこに行ったか知らんが、これのどこがちょっと出かけてくるという時間なんだ」
「はあ、申し訳ありません」
絳攸は不思議そうに首を傾げつつもとりあえず謝罪の言葉を口にする。
まだ、夕刻前だというのに、何故、黎深はそんなことをいうのだろう。
だが、不機嫌の原因が分からない以上、謝ってしまうのが得策だった。
そう、とにもかくにも、さっさっと目的のものを渡してしまわねばと絳攸は緊張で高鳴る心の臓を押さえながら、口を開く。
「あの、黎深さま、その…」
「何だ?その奥歯に物が挟まったような言い方は。物事ははっきり言えといつも言っているだろう」
「はい、その、これを受け取って下さい!」
そういって、絳攸は目を瞑り袱紗に包まれたそれを両手で捧げ持ち、黎深へと押し当てる。その様はまるで、純情な乙女が恋しい相手に恋文を渡すかのような仕草だと百合は思ったが、当の黎深と絳攸は気がつかない。
「扇か?」
「れ、黎深さまはたくさんの扇を持っていらっしゃいますが、その、腐るものではないですし、困らないだろうと思いまして!」
一気にそれだけ捲くし立てると、絳攸はそうっと上目遣いで、黎深を見上げる。
「やはり、別のものがよかったですか?」
何も言わない黎深に不安になった絳攸は問いかける。
「このところ、何やらこそこそとしていたわけはこれか?」
「はい…」
やはり黎深には見抜かれていたのだと絳攸は今更ながらに自分の段取りの悪さを悔やむ。
「開けてみなよ黎深。絳攸から『お父さん』への贈り物だよ」
傍らから覗きこんでいた百合が促すように黎深の手にした包みへと触れる。
黎深は長く整った指先で、袱紗を広げると透かしも美しい白檀の扇が現れる。
「まぁ、お前にしては悪くない選択だな」
「黎深、君ねぇ…」
呆れたように百合が何かを言おうとするが、結局途中でやめてしまった。
聡明な百合は自分が何かを言うより、この二人には二人なりに何がしかの信頼関係が成立しているのだから口を挟むべき問題ではないと判断したのだろう。
「ところで、絳攸、この花はお前が意匠をしたのか」
「え、透かしの部分の花ですか?これは相談をして、細かい部分は任せてしまったのですが、何か問題でもあったのでしょうか?」
絳攸の問いに黎深と百合はほんの一瞬互いの顔を見合わせるが、すぐに何事もなかったように、黎深は広げた扇を閉じる。
「くれると言うのだから、もらわない道理はないな」
「はいっ!」
黎深はいらないものは、視界の片隅にも入れようとしないから、そこそこ気に入ってもらったのだろうと絳攸はひとまず胸を撫で下ろす。
「ところで、絳攸、茶がなくなったから入れて来い。ついでに小腹が空いたから、饅頭を作って持ってくるように」
「黎深さま、茶はともかく饅頭がどうしてそこで出てくるのです!」
絳攸は思わず、卓に乗り出して抗議する。
絳攸の料理の腕前は黎深が一番良く知っているだろうに、何故、突然そんなことを言い出すのか。
「今日は父の日なのだろう。父の願いを聞くのも子の役目だろうが」
そう言って黎深は勝利宣言のように手にした扇を広げ、得意げに笑ってみせる。
こうなると絳攸に勝ち目はないのも同然で、助けを求めるように百合の方を見遣るが、百合は困ったように微笑み、ごめんねと合図を送る。
「分かりました…。作ってきます」
今日はこの後、買い求めたばかりの書を読もうと思っていたのに計画が狂ってしまったと絳攸は肩を落して室を出て行く。
けれど、贈り物は無事受け取ってもらったのだし、不機嫌だった黎深の気分も浮上したようなので、まぁ良いかと絳攸は思い直し、厨房に向かう為に上位の衣を捲くりあげるのだった。
 
 
おまけ(黎深×百合)
養い子が室を出ていくのを見送ると百合は、黎深の頭を軽くはたく。
「何をする百合!」
「どうして君はあんな言い方しかできないのさ。素直にありがとうって言えばいいのにさ。ほんっと捻くれてるよね」
百合は腰に手をあてると黎深を叱りとばす。
「私が、母の日に百合の花の香をもらったからって、臍曲げたりしてさ。あ、もしかして父の日忘れられてたらどうしようとか、内心不安だったとか?」
黎深は答える代わりに百合をじろりと睨みつけ、決まり悪げに扇をぱたぱたと揺らす。
「あれ?もしかして図星?」
百合は驚いたように瞳を見開き、口に手をあてる。
「うるさいぞ、百合。ちょっとアレに贈り物を先にもらったからといって、浮かれるのはやめるんだな」
「はいはい。それにしてもこの扇、持ち手の部分に李花が彫ってあるなんて洒落たことするね」
百合は黎深の手にしたそれを覗き込みながら感心したように呟く。
恐らく、これを作った人物は贈る人、贈られる人がどんな人物なのか思い浮かべて一つ一つの作業に心を込めて作り上げたのだろう。
「まあ、絳攸は気がつかなかったようだがな」
「そうだね。でもこれを作ってくれた人はさ、多分絳攸をみてどれだけ絳攸が愛されているのかも分かったんじゃないかな」
黎深は百合の言葉に否とも是とも言わず、黙って贈られた扇に彫られた小さな李花を指でなぞる。
「あと、どれくらいこうして絳攸に贈り物をもらえるのかな」
ぽつりと百合は呟く。
絳攸とて、いつまでも狭い鳥籠で満足しているような子ではないと分かっている。
空の広さを知り、やがて飛び立つ日がやってくるだろう。
それを楽しみにしているのと同時に、ほんの少しの寂しさが募るのは感傷だろうか。
「ふん。あれがどういう道を進もうと、私たちが、あれの親ということに変わりはない」
黎深は迷いもなく言ってのけると、ぱちりと音をたてて贈られた扇を閉じる。
「君、時々良いこというね。そうだね。私がお母さんであることに変わりはないもんね」
百合は小さく笑うと、黎深を後ろから抱きしめる。
「絳攸がさ、巣立つ日がきたらさ、私、泣くかもしれない。だからそのときは君が責任持って慰めてよね」
「ああ、そうだな。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったお前の顔をみて、せいぜい笑ってやろう」
「ひどいなぁ。こういうとき鳳珠さんだったら、もっと、優しい言葉をくれるんだろうなー」
鳳珠の名前に黎深がぴくりと反応するのがおかしくて百合は笑ってしまう。
「冗談だよ。私の旦那は後にも先にも君一人で十分だよ」
そう言うと黎深はそっぽを向いて知らんふりをするが、その耳が少しだけ赤くなっているのに気づいて、百合は満足げに瞳を閉じるのだった。
 
 
2008.06.17UP
 
コメント

15萬打アンケート、第四位 紅家当主家族。
突如思いついた父の日話。ついでに楸瑛も登場させてみました。黎深×百合もおまけで入れてみましたが…。百合さんこんな口調で良かったのかな??黎百は良いね〜ってことで。

 

 

 

 TOP   NOVELTOP