早春賦
「今年の国試は過去最高の受験者数だそうだ」
王の執務室に向かう途中、絳攸は隣を歩く男にふと思い出したかのように告げる。
「ああ、そうみたいだね。こちらも宮中警備の箇所を再確認しているところだよ」
人の出入りが激しくなるからね。と続ける。
禁軍の方でも、外部のものが出入りする殿試を控え、軍の空気は引き締まったものとなっている。
「吏部はどうだい?」
「今のところ、一区切りついたといったところだな。それよりも吏部は新進士が入朝してからの方が忙しい」
宮中で春を感じると言えば、毎年行われる会試の話題が出始める頃からだった。
暦の上ではもう春だというのに、まだまだ頬を撫でる風は冷たい。
吐く息は白く、庭院の池は一面氷が張っているだろう。
絳攸は吹き抜ける一陣の風に思わず身を震わす。
「寒いのかい?なら暖めてあげようか」
「いらん。余計な世話だ」
満面の笑顔で、ご丁寧に両手まで広げて告げる楸瑛に、そっけなく言い返す。
「とにかく、国試だけでなく、国武試に関する、案件も兵部から回ってきているはずだ、主上に見てもらわなければならない書翰は山とある。急ぐぞ」
そう言って、歩みを早めた瞬間、ふいに平衡感覚を崩す。
「うわっ!」
「っと危ない」
転ぶと思ったのも束の間、その衝撃はいつまでたってもやってこず、気が付けば後ろから抱きとめられる形となっていた。
「気をつけて、この辺りの地面は凍っているから」
耳元で囁かれて、頬に朱がのぼる。
それは、転びそうになったところを見られ、助けられた恥ずかしさか、はたまた、抱きとめられたときに感じた意外に逞しい胸の感触故か。咄嗟に判断がつきかねる。
「すまなかったな」
慌てて、楸瑛の腕を振り解くと、執務室に続く回廊を目指して歩みを進める。
「絳攸、そっちは礼部へ行く回廊だよ」
「わ、分かっている。たまたまだ!」
火照った頬を冷ますにはこの風の冷たさは丁度良い。
まるで、これではすぐ後ろを歩く、常春頭の思考が移ったようではないか。
「行くぞ!」
「はいはい」
誤魔化すように、告げた絳攸の後をくすりと笑みを一つ零し、楸瑛も続く。
「絳攸、お礼は君からの接吻で良いよ」
「ふざけるな!」
振り返りもせずに足音も荒く回廊を行く恋人を追うべく楸瑛の履音も回廊に響きわたる。
再び吹いた風が、二人が去った後の回廊に一片の白い花弁を落とす。
それは春はすぐそこにあると気づかせてくれるようだった。
コメント
たまには、基本に立ち返って、原作設定。武科挙が兵部の管轄だったはずなので、国武試も兵部かなと。試験はいつの時期に行われたのかは、ちと調べ切れなかったので、国試と同じく春かなーと。氷の上で滑っちゃう絳攸とそれを支える楸瑛が書きたかっただけ。