主よ人の望みの喜びを 

「…さま、黎深さま!」

聞きなれた声に、我に返るとそこは自分の執務室で、抱えきれないほどの書翰を持った、己の補佐官でもある、養い子の姿があった。

「どうなさったのです。何度呼んで気付いて下さらないで、また潔ツ様のことでも考えていらしたのですか!」
怒ったように、眉をつりあげて執務机の上に決済待ちの書翰を絳攸は積み上げる。

「すべて目は通してありますので、後はご自分で確認なさって下さい」

まったくと呟く声も、いつものことだった。白昼夢でも見ていたのだろうか。黎深は思った。
何故、今頃になってあの頃のことなど急に思いだしたのか。
月日がたつのは本当に早い。

拾った当時、飢え死に寸前だった痩せっぽちの子供は、そこそこまともに成長した。少なくとも、敬愛する兄の前で、『私の養い子』と堂々と言えるくらいには。

鼠色だった髪は、輝きを増し今では月の光を集めたような光彩を放つ。
否、その輝きは内側から、放つ光によって増すのだろう。
知恵と知識を糧に、精彩を放つ瞳は、あの頃と同じ気の強さを彷彿させ、それは変わっていないなと妙なところで、安心する。

「絳攸」
ぱらりと優雅に扇子を広げ、養い子の名を呼ぶ。
「何ですか?」
嫌そうな表情を隠さずに、絳攸は仕方なしに黎深の元に近付く。

「明日は公休日だったな」
「そうですよ」

一体、どんな無理難題をふっかけられるのかと、絳攸は身構える。

「久しぶりに、お前の作った饅頭が食べたくなった」
「は?また私に饅頭を作れとおっしゃるのですか?」

かつて、養い親の気まぐれで散々、饅頭作りにはげまされたのは、そう昔のことではない。
あまりの上達のなさに、さすがの黎深も諦めたと思っていたのだが、今更言ってくるとはやはり侮れない。

「あれから、少しは上達したのか?あのときは秀麗の作った饅頭で最終的には誤魔化されたが、今度はそうはいかないぞ」

扇に隠されて、その口許は見えないが、きっとそれはそれは、人の悪い笑みを浮かべているに違いなかった。

「わかりました!明日、お茶の時間までには作って持っていきます!!」

それで文句ないでしょう!と畳み掛ける絳攸を黎深はチラッと横目で見遣る。

「絳攸、誰が明日の茶の時間までに持って来い、などと言った?今夜からうちの厨房で下ごしらえすれば、朝食から昼食までに小腹が空いたときに食べられるだろう」

黎深はそう言って、扇をぱちりと閉じると、絳攸の顔をくいっと扇で持ち上げる。

「それとも、何かね?来られない事情でもあるのかね?」
「う…」

疑問系の形をとっていながら、それは否というのを許さない『これは強制だ』ということを十年以上の付き合いで絳攸は学んでいる。

伊達に幼い頃から黎深の養い子をやっているわけではないのだ。

「…ありません」
絳攸の瞳が迷うように揺れたのを黎深は見逃さなかった。

(大方、あの、藍家の四男坊と約束でもしてたのだろう)

十年以上も手塩にかけて大事に育てた養い子は、その輝き故に悪い虫を寄せ付けてしまった。
冗談ではない。本人に言うつもりはまったくないが、これでも絳攸のことはそれなりに可愛がっているのだ。

大切に育てた花をあたら、あちこちの花園を飛び回る花盗人に手折られてたまるものか。
黎深は絳攸の答えに満足そうに口の端をつりあげる。

「使いをやって、百合にも知らせておこう」

最後の駄目押しをすると、絳攸は諦めたように、『はい』と頷いた。

絳攸によって尚書室の扉が開けられると、風が舞いこみ積み上げられたばかりの書翰がふわりと浮き上がる。
退出する絳攸の背も陽の光に照らし出され、きらきらと輝いている。
人の世とは存外面白いものだ。と黎深はこの頃、少しだけ思う。

兄さえ居てくれれば良いと思って生きてきた自分だったが、ふと後ろを振り返れば、生意気な口を聞きながらも、離れまいと懸命についてくる存在に気がついた。

「これが兄上のおっしゃっていた、片手を空けておきなさいという意味か」

黎深は、もし今、絳攸が振り返ったのなら、固まること間違いなしの彼にしては奇跡ともいえる穏やかな微笑を湛えていた。

−どうか、お前は光の道を−

黎深はその養い子の名前に込めた想いの通り、未来に幸あれと願うのだった。

END
2006.6.10


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親子愛大好きです!うちの 黎深様は『お父さんは心配性』です(笑)基本的にこの二人は親子愛で。
もし、腐をやるとしたら、裏行きでしょう。作るか裏…。