確かなのものは闇の中
         


ここはうす暗く、空気も澱んでいる。

それが、楊修のこの場所に関する感想だった。
覆面官吏として色々な場所に出入りはしてきたが、流石に牢の中というのは初めて足を踏み入れる。
だが、物珍しげに周囲を見渡している時間はない。
牢番に話は通してあるとはいえ、長居をしてはこちらが怪しまれる。楊修は、うす暗く細い廊下を歩き、やがて一つの独房の前で足を止める。
「気分はどうですか?李侍郎…ああ、今は侍郎ではありませんでしたね」
くすりと、笑みを零した、楊修の声に労の中の青年はのろのろと顔をあげた。
「楊修か…」
陸清雅を含む、御史台の罠にまんまと嵌り、切れ者と名高かった彼は、かつての姿とはかけ離れた、薄っぺらい衣一枚の姿で、投獄という憂き目にある。
「吏部はどうなっている?」
「それは、まぁ、流石に平常通りとはいきませんがね。思ったより混乱は少ないみたいですよ」
絳攸は、楊修の答えにそうか。と一言呟く。
それは、安堵なのか、それとも自分がいなくても何とかなっていることへの失望なのかは楊修には分からなかった。

陽もろくにささない牢内において、その顔は白く、絳攸のただでさえ、華奢な体は更に頼りなくみえる。
吏部にいた頃は、積み上げてきた実績と、自信が彼を大きくみせていたのだろう。
「尚書はどうされているかは聞かないんですね」
「今の俺には、あの方に合わせる顔がない」
苦渋を滲ませた声で言葉を紡ぎ、瞳を伏せる。
「まぁ、そうでしょうね。このまま居続けたら、どうなるのか、想像つかなかった貴方ではないでしょう?」
陸清雅ごときの見え透いた包囲網にむざむざと引っかかるなど、愚かしいことこの上ない。
楊修はかつての上官を見下ろし、返答次第によっては本気で見限るつもりで、問いかける。
「そうだな。けれど、俺は動けなかった。王に忠誠を誓ったといいつつ、結局のところ、俺の居場所はあの方の傍だと思っていたんだ。中途半端な立ち居地しか取れなかった己の愚かさが招いたことだ」
楸瑛が決意を固めたように、自分もまた決めねばならなかった。
けれど、少しでも先延ばしにしたくて、その結果招いたのはこの様だった。
「一応、頭は冷えたみたいですね」
楊修は、瞳を眇め値踏みするかのように絳攸を見下ろす。
そうしてから、突如喉を鳴らして小さく笑い出す。
「何がおかしい?!」
絳攸は笑い出した楊修に気分を害したように、眉を寄せる。
「いえね、こうして貴方を見下ろす日が来るとは思っていなかったものですから。これもなかなか悪くないなと思っただけですよ」
笑いを収めようとせずに、楊修は言い放つ。
その言いように絳攸の白い面にさっと朱がのぼる。
「どういう意味だ?」
「別に、そのままの意味ですよ。李絳攸」
楊修は格子の隙間から手を伸ばし、素早く絳攸の髪の一房を絡めとると自分の方へと引き寄せる。
そうして絡めた銀糸の髪に唇を落とす。

楊修の突然の気まぐれともいえる行為に絳攸は唖然としている。
けれど、楊修は絳攸が我に返る前に素早く手を離す。


一度は己の手の内に納めたはずの月光色の銀糸はぱらぱらと楊修の手から零れ落る。
それを、少々残念に思いながらも、楊修は絳攸が何事か言い出す前に先ほど、聞いたばかりの情報を告げる。
「王と藍楸瑛が戻ってきたそうですよ。藍楸瑛は、藍家から勘当を言い渡されたそうです」
案の定、絳攸の青藤の瞳は驚きの色を浮かべる。
勘当とその意味を確かめるように繰り返す。
「そうか、主上と楸瑛が戻ってきたか」
噛み締めるように呟くと、絳攸は楊修の存在など忘れたかのように、心からの安堵の息をつく。
「妬けますね」
「何か言ったか?」
小さく呟いた、楊修の言葉は自分の思考に沈み込んでいた絳攸の耳には届かなかったらしく、絳攸は不思議そうに楊修を見つめてくる。
「何でもありませんよ。一つ言っておきますが、私は貴方の味方でも何でもありません。ただ、これ以上、かつての上司の愚かな姿をみたくないだけです」
「ああ。そうだな。だが、感謝する」
絳攸は純粋に感謝の意を示す、微笑みを浮かべる。
「さて、私はそろそろ行きます。これ以上長居して貴方と一緒に投獄なんてことになったら、たまりませんから」
楊修は来たときと変わらない、唐突さで話を切り上げると、懐からとりだしたものを絳攸に放って寄越す。
「これは…っ」
「あなたの忘れ物ですよ」
楊修が寄越したもの、それは王から賜った菖蒲が彫られた佩玉。
絳攸は掌のそれをじっと見つめたまま動かない。
最後に一度だけ、ちらりと振り返ると、絳攸はまるで、祈りを捧げるような面持ちで、瞳を閉じ、佩玉を握り締めていた。
「私も相当な愚か者ですね」
その姿を目の端に捉えた楊修は、自嘲するように呟く。

離れていた二輪の菖蒲の片割れは戻ってきた。藍楸瑛は心を決めたということだ。
そして、今は暗闇の最中にあるもう一輪の菖蒲もじっと夜明けを待っている。
近いうちに二輪の菖蒲は大輪の花を揃って咲かせるだろう。
「李の花を手折り損ねたか…」
最も敬愛する人物にも頼れず、心を交わしていた相手も遠い地に行ってしまった。
足元の不安定な彼の内に入り込み、甘く優しい毒を注ぎ込めば、彼は自分の方を向いてくれただろうか。
けれど、そうして手に入れた彼に自分は満足するだろうか。
花は咲いているうちが美しい。摘み取ってしまったら、後は枯れるのを待つばかりだ。
ならば、自分は彼が花開くときに傍にいよう。そう決めた。
「さて、あの甘ちゃんはようやく決心を固めてくれたようですし、私は残りの仕上げをやりますか」
先程の光景は微かに楊修の胸に痛みを伴うものであったが思いを振り切るように表情を改めると、魑魅魍魎が跋扈する、宮中へと戻っていくのだった。





2008、4.5UP




コメント

『黎明は琥珀に〜』の予告を読んで思いついた捏造甚だしいもの。孟宗竹生えそうな勢いです。『黎明〜』発売したら、削除するかもしれません…。

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