たとえばこんな一日
燃え盛る太陽の季節もいつの間にか過ぎ、気がつくと頬を撫でるのは涼風であり、移り行く彩の中で春に次いで過ごしやすい季節となっていた。
空は高く青く澄み、どこまでも気持ちの良い日である。
それなのに、ここ数日、楸瑛の気持ちは鬱々として晴れなかった。
けれど、そんなことは億尾にも出さずに楸瑛は職務である、王の警護として、劉輝の執務室に控えている。
その傍らでは、同じく王の側近の片割である絳攸が真剣な眼差しで書翰に目を通している。
「主上、先日言っていた件の代案があがってきましたので、裁可してください」
絳攸は一通り目を通し終わり、よしとしたのか先日の朝議で議題になった懸案を劉輝の元に持っていく。
そして、それについての、二、三の補足説明をする。
劉輝も絳攸の言うことに素直に耳を傾け、時折質問を交えながら頷いている。
いつもの見慣れた光景であるのに、どうにも絳攸を目で追ってしまう自分に気がつき、楸瑛は苦笑する。
「主上、そろそろお茶の用意をしましょうか」
楸瑛はさり気ない仕草で立ち上がり、声をかける。
「休憩だな!」
劉輝は嬉しそうに、顔を輝かせる。
あるはずのない犬の耳がみえた気がして、楸瑛は表情を和ませる。
「ええ。今日の主上は頑張っていますからね。お茶菓子も用意してありますよ」
その言葉に絳攸はあまり甘やかすなとでもいいたげに眉を軽く寄せるが、楸瑛は軽く肩を竦めて立ち上がった。
(どうにもいけないな…)
楸瑛は茶葉を器用な手つきで入れながら胸のうちで呟く。
原因は分かっている。
絳攸不足。
それの一言につきる。
現在、絳攸は吏部侍郎と王の側近という二束の草鞋を履き、自邸では紅家当主の養い子として多少ではあるが、紅家の諸々のことにも関わっている。
もちろん楸瑛とて、将軍職に就くものとして決して暇なわけではないが、平時においてはやはり文官の絳攸と比べたら、その差は明らかだ。
毎日のように顔をあわせているとはいえ、そこが朝廷であるからには話題も限られてくるわけで、中々私的な内容にまでは発展しにくい。
吏部侍郎室にまで出向いて誘いをかけても対外は『今、忙しい』の一言で、けんもほろろに断られてしまうことがほとんどだ。
一体、自分と絳攸は何なのだろうかと時々考えてしまうことがある。
晴れて恋人同士になったとはいえ、時々やるせなさが募ってしまうのは隠しようもない。
胡蝶あたりが聞いたら、鼻で笑われそうだなと、そんなことを思い益々、気持ちが塞いでいく。
湯が沸くのをぼんやりみつめながら、楸瑛は軽くため息を落すが、盆に載せ菓子を用意すると、いつもの『藍楸瑛』の顔に戻る。
楸瑛が再び執務室の扉を開けたときには常と変わらぬ笑みを浮かべて、用意した茶を劉輝と絳攸の机案に置き、自分も定位置に腰を下ろすのだった。
「主上、言い忘れていましたが、今日は早めにこちらを切り上げさせてもらいます」
一息ついたところで絳攸が徐に切り出した。
「え…?!」
劉輝は思わぬ絳攸の言葉にほくほく顔で口に運んでいた菓子を取りこぼしそうになる。
「吏部が忙しいのかい?」
楸瑛が訪ねると、絳攸は否と言う。
「まぁ、忙しくないといえば、嘘になるが、すぐにどうこうという問題はない。ただ、個人的な理由でちょっと今日は早く帰りたいんだ」
絳攸はどこか歯切れが悪そうに、最後の台詞をぼかす。
「紅尚書絡みのこと?」
「そういえば、紅尚書の奥方が帰宅するとか先日言っていたな。ということは久々に家族の団欒を楽しむということなのだな?!」
劉輝がほんの少し羨ましそうに絳攸のことを見遣る。
「まぁ、そんなところです」
「では私も今夜は早めに失礼させていただきますよ。昨夜は宿直でしたからね」
楸瑛が続いて答えると、絳攸がちらりと楸瑛の方に視線を向ける。
だがそれも一瞬のことで、『そういうわけなので、残りを一気に片付けますよ』といって、残りの茶を味わう間もなく劉輝を急き立てにかかったのだった。
恨みがましい視線を劉輝が投げてくるが、絳攸はそれを綺麗に無視して、猛烈な勢いで、書翰を処理していく。
劉輝の頑張りの甲斐があって、日が暮れる少し前にはどうにか急ぎの書翰は翌朝の朝議に間に合う次第となった。
「お、終わったのだー」
「お疲れ様です。もう少ししましたら、静蘭がこちらに来ると思いますので、私はこれで失礼しますよ」
力尽きたよう机に伏せる劉輝だったが、静蘭の二文字にぴくりと反応するところは流石である。
楸瑛に続いて絳攸も一礼をすると、執務室を後にしたのだった。
「月が出ないうちに帰るのは久しぶりだ」
絳攸は本当に吏部にも寄らずに帰るようで、軒宿りまでの道を同行することとなった楸瑛は驚きを隠せないでいた。
「君、吏部には顔を出さなくてもいいのかい?」
「ああ、下手に顔を出すと帰れなくなるからな」
確かに、本人は帰るつもりでいても、顔をだせば、あれやこれやと相談を受け、結局機を逃してしまうだろう。
「楸瑛、お前こそ羽林軍の方はいいのか?」
「それこそ、君と同じで顔を出せば捉まってしまうよ」
そう応えると、絳攸はじっと楸瑛をみつめてくる。
「じゃあ、この後の予定はないんだな」
「今日は宿直明けだし、大人しく邸に帰るよ」
常とは違う絳攸の態度に戸惑いながらも、楸瑛は正直に応える。
「もし、時間の都合がつくなら、どこかの酒楼でも行かないか?」
「え?」
だから、次に絳攸が発した思いがけない言葉に間抜けな声を出してしまったのは仕方ないことだと思う。
楸瑛の言葉をどう受け取ったのか、絳攸の表情が僅かに陰り、みつめていた楸瑛から視線をはずす。
「あ、いや、宿直明けで疲れているだろうにすまない。ただ、偶には二人で酒を飲み交わすのも良いかと思っただけなんだ。気にしないでくれ」
絳攸は早口にそれだけいうと、すたすたと歩調を速めて先へと進みだす。
楸瑛は急いで追いつくと、案の定、脇道に逸れそうになった絳攸の腕を慌ててつかむ。
「ちょっと待っててば、絳攸!」
そちらは方向が違うよと訂正すれば、絳攸は眉を寄せて分かっているとばかりに楸瑛の腕を振り解く。
「一体、どうしたんだい?君の誘いなんて珍しいね」
「別に。偶々、早く帰れる日が一緒になったから、酒楼で酒でも飲み交わすのもいいかと思っただけだ」
「本当にそれだけ?」
楸瑛は、そのまま絳攸の身体を抱きこみ、近くに植えてある樹の幹へと押し付け、絳攸の藤青の瞳を覗き込み真意を問いかける。
自分が絳攸に乾いていたように、絳攸もまた楸瑛に乾いていたのではないかと期待してしまう。
「それだけだっ!」
絳攸は僅かに紅くなった頬で、楸瑛から視線を逸らし、ぶっきらぼうに言い捨てる。
その表情が言葉よりも雄弁に絳攸の気持ちを語っていて、楸瑛はつい噴出してしまう。
「何がおかしい!」
「いや、ごめん。何でもないよ。ただ嬉しいなと思ってね」
どうにも楸瑛の一人相撲な気がしていたのだが、絳攸もきちんと楸瑛のことを考えていてくれて、こうして不器用な誘いをかけてきてくれる。
その気持ちが嬉しかった。
「でも、絳攸本当にいいのかい?百合姫殿が帰って来られるじゃなかったのかい?」
楸瑛が伺うように問えば、絳攸は視線を泳がせる。
「別に百合さんが帰ってくるとは一言も言っていない。勝手にお前達が勘違いしたんだろう」
確かに絳攸は執務室で早く帰る理由を聞かれたときに『そんなところだ』といっただけで、
百合が帰ってくるからとは一言も言っていなかったと思い出す。
「そうだったね。では絳攸、せっかくだから、酒楼ではなく私の邸というのはどうだろう?今の季節に合わせて桂花酒を二人で飲み交わすのも悪くないと思うのだけどね」
「お前、宿直明けで疲れているんじゃないのか?」
「一日や、そこいらの宿直で疲れるほど、軟な鍛え方はしていないよ。私が君からの誘いを無碍になんてできるわけないじゃないか」
楸瑛は晴れやかな笑みを浮かべると、素早く絳攸の唇に己の唇を触れさせる。
「お前!こんなところでっ!」
「大丈夫。誰もみていないよ。こんなところでということは、絳攸、ここでなければ良いのかな?」
すっかりいつもの調子を取り戻した楸瑛は、ぱくぱくと口を開閉させる絳攸を面白そうに見遣って、手を差し伸べる。
「さて、そうと決まれば、早く行かなければね。君との貴重な時間は寸刻でも無駄にしたくないんだ」
楸瑛の差し伸べた手を絳攸は呆れたようにみつめるが、やがて小さく吐息を漏らすと珍しくもその手を握り返してくる。
「軒宿りに行くまでだからな」
「了解」
そうして、桂花の香りに包まれながら、軒宿りまでの道を絳攸の手を引いて歩く。
触れ合った先のぬくもりが、心地よい。
恐らくそれは、楸瑛だけでなく、絳攸もまた思っていることだと、確信めいた気持ちが繋いだ手から伝わってくるのだった。
END
コメント
金木犀の季節らしいお話をと意気込んでみたものの、全然関係ないお話に…(笑)
楸瑛は自分の誘いに落ちない相手は今までいなかったので、絳攸相手にどうしたら良いかわからず。絳攸も初めての恋愛にどうしたら良いかわからず〜なお話。のハズ…。