時計じかけの林檎

 


「ん…」
夢現の中、絳攸は自分の寝台の中でのおかしな気配に夜明けまで大分あるにも関わらず、ふと目を覚ました。
「何なんだ…楸…え」
足元の方からもぞもぞと這い上がってくる気配に、鬱陶しそうに口を開くが、それは次の瞬間、侵入者が口を開いたことによって、一気に覚醒へといたる。
「ふむ。それは、愚兄その四の名前。愚兄その四がどうかしたのか。その親しき友よ」
「ら、藍龍蓮?!」
そこにあったのは見知った顔によく似た、けれど全くの別人である顔だった。
「ど、どうしてお前がここに居るんだ!」

『楸瑛』と言いかけたのを、まさか聞かれたのだろうか?!否、聞かれただけならまだいい。その意味を聞かれたらどうしようかと、絳攸の内心は、冷や汗だらだらだった。


「これは異なことを言う。自分がここに連れてきたのを早くも忘れたのか?」

「俺が言いたいのはそういうことじゃない!人の寝台に何故入り込んでくるんだ―!」

だが、さすが天つ才。目のつけどころならぬ、言葉のつけどころが違っていた。
 
話は少し遡る。
 
夜も大分更けた頃、ようやく帰路についた絳攸は軒宿りで、頬にあたる冷たいものに気が付き、暗い空を見上げる。
「雪か…どうりで冷え込むはずだ」
絳攸は暗い空を見上げ呟く。
こんな日は少しでも早く帰って、早く邸で暖まりたいものだと軒に乗り込もうとする。
ところが、そのときふいに外套を引っ張られ体が仰け反る。
「な、なんだ?!」
ここに来たときは、確かに誰もいなかったのにと、突然のことに驚いて、後ろを振り返る。
「久方ぶりだが、息災だっただろうか、愚兄その四の親しき友殿」
「藍…龍蓮?」
自分の兄のことを愚兄と呼び、あまつさえ絳攸のことを、そのようなおかしな呼び方をするのは、相もかわらず風変わりな格好をして、宛所なく旅をしている、この目の前の人物しか思い当たらない。
「いかにも。この奇なる再会を祝して一曲」
そう言って、愛用の横笛を口許に持っていこうとするのを絳攸は慌てて止める。
「待て、こんなところで吹くな…ってお前、何でそんなに冷え切っているんだ?」
阻止すべく、掴んだ手は驚くほど冷たくて、まるで氷のようだった。
「なに、空から舞い落ちる、この恵みを眺めていたらいつの間にか少々時間がたっていたようだ」
「一体いつから、ここにいたんだ!」
まさかとは思うが、降り始める前から、ここに居て、舞い落ちる雪をずっと見ていたというのだろうか。
「何を怒っているのだ?そういうときは、干した小魚を食べると心が落ち着く。食するがいい」
そういって、何やら、小さな包みを取り出す龍蓮に、絳攸はがくりと項垂れる。
「ともかく、こんなところで押し問答をしていても始まらない。藍邸に送って行くから、軒に乗れ」
そう言って、軒を指し、絳攸も軒に乗り込もうとするが、足をかけたところで、再び外套を掴まれ、今度こそ後ろにひっくり返りそうになるが、寸でのところで、龍蓮に受け止められる。
「危ないだろうが!何を考えているんだ!」
「藍邸はごめん蒙る」
「じゃあ一体どこに送って行けと言うのだ?」
まさか、潔ツ様の邸とでも言うのではないだろうなと内心戦々恐々としながら、相手の出方を伺う。
「心の友の風流な邸も捨てがたいが、せっかくだ。愚兄その四の親しき友との記念すべく再会だ。私も一緒に帰ろう」
「俺のところに来るというのか?」
思わず、眉間に皺が寄ってしまうのは、龍蓮に関わると碌なことがないという、今までの事柄から学んでいるから当然のことだった。
ほとんど間接的にしか関わっていない自分でもこうなのだ。これの兄をやってきた楸瑛の十数年間を思うと、本気で同情を覚えてしまうと同時に、ある意味尊敬もする。
「さあ、そうと決まれば善は急げという。何をぼやぼやしているのだ。早く来るがいい」
主人である絳攸を差し置いて、さっさと軒に乗り込むと手招きする。
「この軒の主は俺なのだが…」
一体何故、こんなことになるのだと言いたげな絳攸を尻目にその顔は心なしかほんの少し嬉しそうにみえた。
 
 
絳攸は、ここに連れてくる羽目になった一連の出来事を思い出し、ずきずきと痛むこめかみに手をあてる。
「お前の室はちゃんと用意させたはずだが?」
「雪が降っている」
「雪?」
何を今更言うのだろうか、雪ならば、軒宿りで会ったときに既に降っていたというのに。
それと、人の寝台に潜りこむのとどう関係があると言うのか。
龍蓮の言いたいことが分らず、絳攸は次の言葉を待つ。
「私は、雪が好きだった。辺り一面を覆いつくし、全てのものを等しくさせるその光景が好きだった」
龍蓮は闇色の感情の乏しい瞳で絳攸をみつめる。
「そうか…」
龍蓮は、絳攸の養い親と同じく天つ才だという。
天から与えられた非凡な才能。それ故に誰とも感覚を共有することができず、その瞳に映るのは、常に自分にしか分らない。
それはどれほどの孤独だろう。
けれど、全てを覆い隠す雪だけは、天つ才も常人も変わらずに気高いまでの白さの中に閉じ込める。
そのときだけは、藍龍蓮ではなく、ただ一人の無力な人間であることを実感できるときだったのかもしれない。
そんなことを思うと、目の前の少年が急に幼子のように思えてきて、絳攸はそっと龍蓮の頭を撫でてやる。
「ここは暖かいな。私は…今はほんの少し雪が恐ろしい」
「それは、お前に失いたくないものができたから、そう思えるんだろう」
絳攸もまた、黎深に拾われてから、今まで無感覚に眺めていた空から降る冷たいものが、恐ろしいと思えるようになったのだから。
「眠れないのなら、仕方がない。今夜だけはここにいてもいいぞ」
絳攸の言葉に龍蓮はこくりと無言で頷く。
龍蓮は、彼にして珍しく戸惑いがちに絳攸の背に手を廻し、その腕の中に抱きしめる。
「楸兄上は良き相手に巡りあえた」
小さな呟きは、絳攸の耳に届くことはなかったが、それでも龍蓮の言いたいことは分っているようで、黙って、その艶やかな黒髪を梳いてくれる。
「俺は明日も早いんだ。もう寝るぞ」
今にも閉じそうになる瞼でそれだけ言うと、しんしんと降り続く外の光景とは裏腹に穏やかな温もりを分かち合うように、もう一度上掛けを肩まで引き寄せると瞳を閉じるのだった。
 
 
翌朝、絳攸が窓の外から差し込む、眩しい光で目を覚ましたときには、龍蓮の姿はどこにもなく、かわりに小さな包みだけが卓に置いてあって、中には干した小魚が入っていた。
「あいつなりの礼のつもりか?」
(猫ではあるまいに干した小魚とはな)
まるで、お伽草子の狐の恩返しだ。それでも、せっかくだからと一つまみを口の中に入れる。
「意外といけるな」

今度、もしこの邸に来るようなことがあるならば、このお返しに酒でも振舞うかと、唇に微笑を湛え、絳攸は思うのだった。







2007.5.6 UP


コメント

龍蓮、兄嫁に会いに行くの回でした。(違)季節はずれですいません。原作でも龍蓮と双花が絡んでくれないかと思う、今日この頃…。絳攸は何だかんだで面倒見良い気がします。



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