冴え冴えとした夜の月が、地上を照らす。
昼の喧騒とは打ってかわって静まり返った、街はそれが深夜だということを如実に伝えていた。
そんな中、当主夫婦の寝所に程近い、一室からは煌々と明かりが漏れていた。

蜀台の明かりの下で、書物を広げている子供が一人いる。

その子供は時折、耐え切れなくなったようにこくりと細い首が下がっては、慌てて、顔をあげるといった様である。
紅家別邸も本来なら例にもれず、一部の家人を除いてほとんどの住人は眠りについているはずだったが、僅かに回廊から履音がした。
履音は、明かりの漏れている一室でぴたりと止まると、声を外からかけることもなく、勢いよく開け放つ。
「何だ、お前まだ起きていたのか」
「黎深さま」
寝所の扉を開けてつかつかと室に入ってきたのはこの邸の主である紅黎深である。
夜中にも拘らず、明かりが漏れる室に、火の元を始末しないまま子供が寝てしまったのだろうかと、寝所の扉を開けたのだが、いまだ就寝していなかった様に黎深は閉じた扇を口許に当て、片方の眉をあげる。
「おかえりさない」
絳攸と名づけられたばかりの子供は、突如室に入り込んできた冷気に身を震わせたが、それでも嬉しそうに顔を輝かせ、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「お仕事お疲れさまです」
「何故、こんな時間まで寝ないんだ?」
「えと、僕、お昼寝をいっぱいしてしまったので、眠くないんです」
絳攸は小さく、えへへと誤魔化すように笑った。
その言葉が嘘であろうことは、扉を開けたときにみた船を漕いでいた様子から見れ取れたが、黎深はこの子供が何故、そんな嘘をつくのかが興味があったので、次の言葉を黙って待った。
「あ、黎深さまは明日も早いんですよね。おやすみなさい」
ところが、絳攸はそれだけ言えて満足したとばかりに、礼をするので、黎深は訳が分からずに眉を顰める。
「それだけか?」
「はい?何でしょうか、黎深さま?」
円らな瞳で不思議そうな表情をして首を傾げる絳攸に、漸く黎深も絳攸がこんな時間まで起きていたわけを知った。
つまりは絳攸は黎深に一言『おかえりなさい』と言う為だけにこんな時間まで起きていたというわけだ。
「まったく」
小さく黎深が呟くと、絳攸は何か、気に障ることをしたのだろうかと途端に表情を曇らせる。
「少し付き合え」
黎深はそれだけ言うと入ってきたときと同じような唐突さで踵を返す。
絳攸は慌てて、その後を追うのだった。
 
 
「黎深さま、どちらへ行かれるんですか?」
絳攸は遅れないように、はぐれないように黎深の後を付いていくが、黎深は何も言わずに紅家別邸の広大な庭院を歩く。
やがて、黎深は四阿の一つに辿りつくと、さっさと腰を下ろす。
「何をぼんやり立っている。座りなさい」
「はい」
ひんやりとした石の感触に薄い夜着一枚の絳攸は急速に冷えが伝わってくる。
すると、上からばさりと何かが降ってきて、絳攸の視界を塞いだ。
「着ていろ」
「え?ですが、黎深さまは?」
「お前に風邪でもひかれたら百合がうるさくてかなわん。私が迷惑をする」
「はい、すいません」
絳攸は申し訳なさそうに項垂れると、それでも遠慮がちに黎深から渡された衣を身に纏う。
「絳攸。月を見なさい」
「月ですか?」
黎深に言われるまま、絳攸も夜空に架かる細い月を見上げる。
流れる夜の色をした雲に時折隠されるが、冴え冴えとした光を月は地上に放っている。
時折吹く風が、絳攸の月の雫を集めたような銀糸の髪をさわさわと揺らす。
周囲は虫の声すらせず、ただ風が梢を揺らす音が聞こえるばかりである。
「なんだか、怖いです」
絳攸は、黎深から渡された衣を膝の辺りで握り締め、不安そうに黎深へと視線を移す。
「いいことを教えてやろう絳攸」
黎深は闇夜よりも尚深い、漆黒の瞳で絳攸の瞳を覗き込む。
「は、はい!」
絳攸は怖いほどに真剣味を帯びた黎深に居住まいを正す。
「月にはな、物の怪が棲んでいるのだ」
「も、物の怪ですか?!」
絳攸は恐ろしさにごくりと喉を鳴らす。
「そうだ。あの月に架かる黒いのは雲ではない。物の怪の集合体だ」
黎深は優雅に扇を広げると、事も無げに恐ろしいことを言ってのける。
「あの物の怪はな、子供が大好物で、隙あらば、子供を攫おうと目論んでいるのだ。そうして捕らえた子供は、物の怪の一つとなって、月の光が地上に届くのを邪魔するようになる。だから、月は物の怪の影響を受けて満ちたり欠けたりするというわけだ」
「そうなのですか?!僕も攫われちゃうんですか?」
絳攸は黎深の話に半泣きの様子で、黎深に嫌だと訴える。
そんなことになったら、優しい百合さんや、少し怖いけれど、自分をこうして引き取って、育ててくれている黎深さまに会えなくなってしまう。
絳攸はそのことが何よりも怖かった。
「そうだな。物の怪は夜も寝ずにふらふらしているような子供に目をつけるからな」
黎深はちらりと横目で絳攸を見遣る。
「僕、明日から夜更かししないでちゃんと寝ます。だから僕を連れて行かないで!」
絳攸は夜空に向かって必死で祈る。
「まぁ、そういうわけだ。分かったなら邸に戻るぞ」
黎深は他愛無い嘘をすっかり信じて、今にもべそをかきそうな絳攸に満足そうな笑みを浮かべていたが、広げた扇が影となって、それは絳攸の位置からは見えなかった。
そうして数歩先を行く黎深を追いかけると、月明かりのみを頼りにしていた絳攸は、庭院に敷き詰められた小石に足を引っ掛け転んでしまう。
「何をやっているのだお前は」
黎深は呆れたようにため息をつく。
「すいません!」
転んで擦りむいた痛みのせいではなく、黎深に呆れられたという思いに絳攸はじわりと涙を滲ませる。
だが、次の瞬間ふいに視界が高くなり、絳攸は驚きに声をあげる。
「黎深さま?!お、降ろしてください」
「うるさい。暴れると落すぞ」
絳攸は黎深の肩にまるで米俵でも担ぐようにひょいっと抱えあがられ、じたばたと足をばたつかせるが、黎深の一言でぴたりと暴れるのをやめた。
黎深が落すといえば、脅しでなく本気で落すことを、拾われてから一年近い歳月の間で絳攸は学んでいたからだ。
家人がみたら、騒ぎになるであろうこの光景も人々が寝しずまった夜更けとあり、絳攸の寝所に着くまで、誰にも見咎められずに済んだ。
そのことに少しほっとしながらも、黎深のぬくもりが離れていくことに絳攸は寂しさを覚えた。
「いいか、絳攸。今後私の帰りを待つなど馬鹿なことはするな。最もお前が物の怪に攫われたいというなら話は別だがな」
黎深は駄目押しのように釘をさすと、愛用の扇を卓子に置き、上掛けを捲り上げる。
「え、黎深さま?!」
「もう少し詰めろ。お前はチビなのだから、私一人くらい一緒に寝たとて狭くはあるまい」
突然の黎深の行動に絳攸は目を白黒させるが、黎深はそんなことはお構いなしに、絳攸の寝台に潜り込む。
「私は明日も早いんだ。だからお前も早く寝ろ」
黎深は欠伸を一つすると絳攸に背を向けたまま、本当に寝入ってしまった。
「黎深さま、あの、ありがとうございました」
絳攸は小さく呼びかけるが、黎深からの答えはない。
短い時間ではあったが、黎深と共に月を眺めることができて絳攸は幸せな気持ちになった。
けれど、黎深が寝入ってしまうと途端に物の怪の話が思い出され、慌てて絳攸はぎゅっと目を瞑るのだった。
 
 
 
やがて規則正しい小さな寝息が聞こえてくると、黎深は絳攸の方へと向き直る。
「馬鹿者めが」
呟いて、上掛けからはみだした細い手をしまいなおしてやる。
「きちんと食べているのか」
いつまで経っても細いままの絳攸に黎深は眉を顰める。
黎深は、拾いたいから拾ったのであって、絳攸がそのことについてあれこれ思い悩む必要はないというのに、どうしてそのことが分からないのか。
それとも、黎深が絳攸を置いてどこかに行ってしまうとでも思っているのだろうか。
まったく余計なことばかりに気を廻す子供だ。
「…れい…さま」
夢でもみているのか、絳攸がむにゃむにゃと何事か呟く。
「安心しろ、私はどこにも行かん。ここがお前の居場所だ」
黎深は普段は見せることのない、優しい瞳で絳攸の寝顔をみつめる。
この小さな子供もいつまでこうして、ここに居てくれるのか、ふとそんなことを思うと、一抹の寂しさを覚えるが、それはまだまだ先のことと割り切り、夜明けが来るまでの数刻を眠りにつくべく黎深もまた瞳を閉じるのだった。





コメント

あさかわいつきさまに、お誕生日プレゼントとして捧げた親子話。
『劉輝の部屋』を見て思いついた話。
黎深さまも新人官吏時代は居残りとかさせられたのかしらねー?!でも黎深さまのことだから、誰が何と言おうと、さっさと定時で帰りそうな気もします(笑)



                                                                                                 
2008.11.6UP


TOP   NOVELTOP