宵待月





彩雲国の都、貴陽。

その郊外に、夜も大分更けたというのに、高楼に登る者が居る。
この都に暮らすほとんどの人々が、眠りの中にあるような刻限だった。

絳攸は、あがる息を抑えながら、一歩、また一歩と階段を上がる。

「これは、普段からもう少し鍛えるべきだろうか…」

漸く、頂まで登りおえると、絳攸は笑う膝に手をあて、肺に大量の空気を送り込むべく、荒い呼吸を繰り返す。

暫くして、ようやく呼吸が整ってきたのか、やがてその顔をあげ、夜空を見据えるような眼差しになる。

「今夜は月も隠れがちだな」

一人呟く。普段であれば、観月の隠れた名所であるこの高楼も、あいにく今夜は流れの早い雲に月は姿を隠され、時折その姿を切れ間から覗かせるだけだ。

風は絳攸の結い切れなかった後れ毛をさらうが、絳攸は気にしたふうもなく、遠くに思いを馳せるような表情でもって瞳を閉じる。

そのとき、風の音に混じって、長く伸びるような音が聞こえてきて、絳攸は思わず振り返る。

啜り泣きにも似たその音は、気のせいではなく、段々こちら側に近づいてくるようだった。

幽霊?!そんな単語が頭の中で浮かび上がる。

幽霊などというふざけた存在を長いこと信じてはいなかった絳攸だったが、とある事件をきっかけに目の当たりにしてからは、いないと言い切れなくなってしまった経緯がある。

「そ、そこに居るのは、誰だ?!」

幽霊なんて、そうそういるわけがない。それにあのときと違って雷も今は鳴っていない。そう絳攸は結論づけると、やや上擦った声ではあるものの、闇に向かって詰問する。

「先客が居たのか」
「楸え…――」

雲の切れ間から顔を覗かせた月に照らされた、その姿は自分が今、まさに会いたいと思っていた相手によく似ていた。

だが、次の瞬間、そんなことはあるはずがないと思い出す。
楸瑛は藍州に帰ったのだから――と。

「藍龍蓮…か?」
「いかにも。先客は愚兄その四の友人殿だったのか」

再び、顔を覗かせた月にその姿が浮かび上がる。

艶やかな黒髪、闇色の双眸。その奇天烈な格好さえ覗けば、絳攸のよく知る人物と、とても似ている。

龍蓮はこのような所で、人に会うとは思っていなかったのか、僅かに瞳を瞬かせる。

「愚兄その四の友殿も月見か?このように時折しか見えない月も、また一興」

この風変わりな天つ才の感性に触れるものがあったのか、そう言って、手にした笛を唇にあて、細く長く伸びた音を出す。

「別に月見というわけではないな。ただ、ここにでも登れば遠くがみえるかと思ってな」
「ここから藍州は、例え月が出ていても見える距離ではない」
「分かっている。昼間でも見えないだろうな」

絳攸は苦笑する。分かってはいても、それでも何かせずにいられなかったのだ。

「楸瑛が自分で決めたことだ。俺がどうこう言える問題じゃない」

あのとき絳攸が行くなと言ったところで、楸瑛はきっと困ったように微笑んで、それでも絳攸の脇を通り過ぎていっただろう。

「藍州は遠いな…」

絳攸は龍蓮に同意を求めるというよりは、一人呟くというふうに、風に乱される髪を押さえ、その瞳を夜の闇へと向ける。

「楸兄上は戻る」
「慰めてくれるのか?」
「いや、これは必然。王も動いた。藍家当主たちも、楸兄上の居場所は藍州ではないと気付いているはず」

龍蓮は、感情の伺えない、双眸を絳攸にひたと向けてくるが、その瞳には、慰めでも、励ましでもない、ただ客観的事実についてあくまで淡々と述べている。そんな彩が浮かんでいた。

「そうか。お前がそう言うなら、そうなのかもしれないな」

絳攸は少しだけ口元を綻ばせる。

「楸兄上がそれに気がつけばの話だが。いくら愚兄といえどそこまで愚かだとは思いたくない」

龍蓮は唇をへの字に曲げると、憮然とした表情を見せる。

「楸瑛が戻ってきたら、お前がそう言っていたと伝えよう」

年相応の表情をみせる龍蓮に、絳攸は思わずフッと笑みを浮かべる。

「李絳攸殿、楸兄上が帰られたら、自分の気持ちを偽らずに伝えることだ。さすれば、三度は去ろうとは思わぬはずだ」
「ああ、そうだな。三度目はない」

一度目は、文官を辞すると言って、去った。二度目は藍州に帰ると言って、去った。

もし、これで三度目にそのようなことを言い出そうものなら、どこにでも行けといって、その背を蹴り飛ばすつもりだ。

「あいつが戻ってきたら、手綱は放さないように握っておく」

厚い雲が途切れ、姿を現した月が不適な笑みを浮かべる絳攸を照らし出す。

「月を待つ。人がどれだけあがいても、雲を蹴散らすことはできない。けれど、月は消えた訳ではない。月はやがて姿を現す。その機を待てばいいだけのこと」

龍蓮はそれ以上は何も言おうとせずに、笛を唇に当て、何とも表現のしようのない音色を披露する。

楽として捕らえようとすると、理解に苦しむが、風の音、梢の揺れる音、そのようなものに混じって捕らえると、不思議と整合性のあるものに思えてくる。

「藍龍蓮、礼を言う」

段々と遠くなっていく笛の音に絳攸は声を張り上げるが、それに対する返事はなく、やがてその音も耳を澄まさなければ聞こえないほどとなった。

「機を待つ…か。簡単なようでいて難しいな」

絳攸は苦笑するが、ここに登ってきたときほどの焦燥感はいつの間にか消えていた。

何かに突き動かされるようにして、この高楼に登ってきたが、月はそんな人の思惑など知る由もないとばかりに佇む絳攸を静かに照らし出す。

「楸瑛が帰ってきたら、ここで酒でも飲むか」

それまでに、自分もやっておかなければならないことがある。
機がきたときに、迷いなく動けるように。

「足元が揺らいだままでは、楸瑛のことを迎えられないからな」

自分たちは共に花を下賜された。言わば、二輪揃ってこそ力を発揮できるというもの。
腰に下げられた牌玉を手に取り、絳攸はその彫られた模様を見つめる。

「どちらも欠けさせない」
決意を込めて、絳攸は牌玉を握る。

「俺たちは二人揃っての王の双花菖蒲だろう?」

絳攸は遠く離れた藍州に居る楸瑛に問いかける。

下賜の花の彫られた刀を返上した今はどうしているのだろうか。

案外、自分で返上しておきながら、なくなった刀の重さに喪失感を感じているのではないだろうか。

そんな想像をして、絳攸はくすりと笑う。

「戻ったら、一番上等な酒をあいつには持ってこさせよう」

そうして、王と自分たち二人と三人で、月でも眺めながら、あのときは大変だったと笑って話せれば良い。

「だから早く帰ってこい楸瑛」

切なる願いを込める絳攸を淡い月明かりだけが照らし出していた。

   


 

2007.8.26up

コメント
『青嵐』関係ネタ。『白虹』が出る前にと思って書いてみました。
当初考えていた話はもっと龍蓮×絳攸ぽかったのですが、なんだか、龍蓮が大人しく…。しかし、月にまつわる話が多いですが、ほら、昼間はお仕事しているから!ってことで…(笑)






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