百合の花冠

 

「奥方様、もうすぐ藍家の軒がこちらにやって参ります」
「そう。では予定通りにやって頂戴」
影からの報告を聞いた紅黎深の妻である百合は、優雅な仕草で繊細な模様の施された絹の団扇を口元に当てると、かねてからの打ち合わせの通りにと命令を下す。
すると往来の真ん中を走っていた軒は突然、馬が嘶いたかと思うと、高く棹立ち運悪くも車輪が溝に嵌ってしまう。
軒も大きく傾ぎ、通りを行きかっていた人々は慌てて飛びのく。
御者は慌てふためいて台座から降りてきて、中にいる百合の様子を確かめる。

「奥方様申し訳ございません。馬がどうしたことか急におかしくなりまして。お怪我はございませんでしたでしょうか?」
「ええ、大丈夫ですわ。それにしても驚きましたわ」

御者の問いかけに百合は、殊更不安気な声を出してみせる。

「お急ぎのところ申し訳ありません。すぐに軒を戻しますので」

御者は、馬が無事なことを確かめると、周囲の人の手を借りて、軒を往来に戻そうとするが、中々思うようにいかないようだった。

すると、どうしたものかと遠巻きに眺めていた人々の前に一台の軒がゆっくりと速度を落として近づき、軒の中から、一人の青年が降りてきた。
「どうなさいました?何やらお困りのご様子ですね」
彼の衣の色をみて、周囲の人々はさっと開ける。
纏う色は深い藍。この彩雲国で現在それを纏うことを許されているものは極僅か。それは、彼の姓を現している。
いかにも貴公子然とした風貌の彼の名は藍楸瑛と言う。
これで助かったと言わんばかりの、ほっとしたような表情を浮かべる御者を余所に、軒の中の百合はその声を聞いて団扇の陰でこっそりと笑みを浮かべるのだった。
 
 
 
 
ことの起こりは数日前だった。
この日、紅黎深の機嫌は朝からすこぶる悪かった。
別に今に始まったことではないので、百合は今更気にすることもなく、放っておくことにした。
このところの黎深の不機嫌の要因は養い子である、李絳攸のことだった。
絳攸が何かをしたわけではない。
百合が手塩にかけて育てた、自慢の息子はどこにだしても恥ずかくないほどの立派な若者に成長したし、元来の性格故か真面目すぎるほどであり、ときには少し羽目を外すくらいのことはしても良いと思う。
その絳攸は公休日だというのに邸にいない。
それが黎深の不機嫌の原因だった。
「黎深様、いい加減になさいまし。そのお顔のせいで、家人たちが怖がっていましてよ」
「私はいつもこんな顔だ」
取り付く島もなく言って、黎深は百合の顔を一瞥する。
「絳攸のことなら、心配いりませんわ。お友達の所に泊まるって文がきたじゃありませんか」
百合は先程、家人が用意していった茶をゆったりと味わう。
「何が友達なものか!あんな者を私は認めん。くそ忌々しい藍家め!」
「決めるのは貴方でなく絳攸ですわ」
おっとりとした口調ながらも、さり気なく突っ込むことは忘れない。
まったくこの夫にも困ったものだと百合は大きく嘆息する。
「アレは、私の子だ!」
「でも、育てたのはわたくしですわ。黎深様は昔から心無い態度や言葉で絳攸を怖がらせてばかり。よく世を拗ねなかったものだと思いましてよ」
「お前の育て方が良かったとでも言いたい口ぶりだな。だがアレを拾ったのは私だ」
勝ち誇ったように言う黎深に、茶を注いでいた百合の白魚のような指は一瞬動きを止める。そう、悔しいことに絳攸は百合を敬ってくれはするが、一番慕っているのは黎深なのだ。
何で、あんなわがまま大王の黎深をあそこまで慕えるのか、百合にとってはこの彩雲国の七不思議の一つである。
話が逸れたが、つまるところ黎深の不機嫌の内容は絳攸が居ないこと。藍邸に泊まるといってきたことが気にいらないというわけのだ。
「絳攸だって年頃なんですもの。お友達の一人や二人、恋人の一人や二人いたっていいじゃありませんか」
「私は、相手をとっかえ、ひっかえするような、そんなふしだらな者に育てた覚えは無いぞ!」
「ものの例えでしてよ」
百合は呆れてそれ以上の口が聞けなくなる。
それにしてもと百合は思う。
あの中々人に懐かない絳攸が頼りにしている藍楸瑛とはどういうものなのだろう。噂によれば、相当の風流人というか、かなりあちこちで浮名を流しているということだが、まさか、うちの絳攸までも弄ぼうという魂胆なのだろうか。
そうだとしたら、問答無用で闇から闇へと葬り去るのみだが、その前にどんな人物なのか、実際に会ってみたかった。
けれど、紅家別邸に招くわけにもいかないし、こちらから訪ねていくことも問題外だ。
どうしたものかと思案した、そのときふっと百合の頭の中で閃くものがあった。
(出会いがなければ、作ればよいのよね)
我ながら名案だと百合は手を打ち合わせる。
黎深はそれからも何やら色々と言っていたようだが、百合に聞く気がないのをみてとると、足取りも荒くどこぞへと行ってしまった。
もしかしたら、同期の友人たちのところに押しかける気だろうか。
傍迷惑にもほどがあると思ったが、百合としてもせっかく思いついた計画を早いうちに実行する為、影を呼ぶ。

『藍楸瑛様の軒がよく通る道、時刻について調べてちょうだい』と、弾んだ声で命を下すのだった。
 
 
 
こうして、偶然を装って仕掛けられた波乱の幕は切って落とされたのだった。
「どうしたことか、馬が急に嘶いて…、ご覧の通り、車輪が溝に嵌ってしまって。難儀しておりましたところですの」
楸瑛の呼びかけに、百合は軒の中から応える。
「それは大変ですね。もし宜しければ私の軒にて目的の所までお送りいたしましょう」
「まぁ、ですがご迷惑ではございませんこと?」
「いいえ、お困りの女性を放っておくことなどできませんよ」
「では、お願い致しますわ」
百合はにっこりと微笑み、扉を開けると、楸瑛の手に自分の手を乗せるのだった。
 
 
軒の中は窓には紗幕が下ろされていて、万が一にも外からは見られないように配慮されている。
それは、高貴な身分の婦人の姿がむやみに人目に触れないようにとの楸瑛の配慮であろう。
名は聞くようなことはしない。恐らく、こちらが何やら訳ありということを察してくれたのか。
そうだとしら、憎い位の心配りである。
「それにしても、助かりましたわ。藍楸瑛様」
「おや、私の名をご存知なのですか?」
「ええ。わたくしの夫も息子も官吏ですの。ですから、色々とお噂は聞いておりますわ」
百合は、綺麗な刺繍の施された絹の団扇で顔を半ば隠すようにしながら、じっくりと楸瑛を観察する。
均整の取れた鍛えられた体、瞳は夜空を写し取ったかのような深い濃紺、切れ長の瞳はきりりとしていて、薄い唇は微笑を湛えている。
それはどこか艶めいた色気を醸し出していた。
端正な面に、女性に対する細やかな気遣い、おまけに名家の御曹司でとくれば世の女性達が騒ぐのも納得が行く。
「残念です、美しい方。既にご結婚なされていたとは。しかし、官吏になるほどの大きな息子をお持ちにはとても見えませんね」
楸瑛は、社交辞令にしても歯が浮くような台詞を述べるが、事実三十を少しすぎたばかりの百合は年齢よりも若くみられることが多い。
資陰制で官吏になった息子を持つにしても、随分と若いうちに子供を生んだのだろうと楸瑛は推測する。
「まぁ、お口がお上手ですこと。楸瑛様はいつもそんなことを言っていらっしゃいますの?これまで、何人のお嬢様方を泣かせていらっしゃったのかしら」
「これは心外ですね。私はいつも本当のことしか言いませんよ」
楸瑛は方眉をあげて苦笑する。
中々に手強い相手だと楸瑛は悟ったのか、その話題にはもう触れようとはしない。
「ところで、少々お伺いしたいことがございますの」
「何でしょうか?私にお答えできることなら何なりと」
「実は、わたくしの身近にいる者で、楸瑛様に恋心を抱いているものがいるのですけれど。大層綺麗な子ですのよ。どう思いまして?」
狙いはそれかとばかりに楸瑛は、他人には分からぬ程度に僅かに表情が変化する。
「そうですね。それほど美しい方ならば、お会いしたいのは山々ですが、生憎と今は色々と忙しく。どうかその方に宜しくお伝え願いますか」
軒の中に心なしか、冷たい空気が横たわる。それは打ち破ったのは百合の凛とした声であった。
「わたくしの言い方がどうやら、悪かったようですわね。別に貴方の家と婚姻を結びたいとか、そういった狙いじゃありませんの。貴方の本心を知りたかっただけですわ」
百合はそれまでのおっとりとした態度から、背筋をしゃんと伸ばして、やや険のある口調になって言い放つ。
楸瑛はその態度が意外だったのか、暫し目を瞬かせる。
「どうかなさいまして?」
「いえ、ちょと、私の知り合いを何となく思い出しまして…」
楸瑛はそう言って首を傾げる。
どうやら、百合の狙いが縁談関係ではないと察した楸瑛は、暫し逡巡したが、やがて思い切ったように口を開く。
「私は、過去はどうあれ、今は大切にしたいと思っている人がいます。怒りっぽくて、真面目で、誰よりも自分を育ててくれた方を敬愛していて、ときに妬けるほどです。だから、私は今も、これからもそういったお話はお受けできないのです」

百合はじっと楸瑛を見つめるが、その表情は真剣なもので、偽りらしきものは感じられなかった。

「このことは他言しないでいただきたい」

楸瑛が、少し茶化した様子で器用に片目を瞑る。

その様をみて段々と百合の表情は柔らかなものに変わって行き、その表情は、子を思う母の顔のようだと、楸瑛は思った。
「それを聞いて安心致しましたわ。わたくし、それだけが不安でしたの。余計なことと知りつつも、貴方のご本心を伺い、安心致しましたわ」
「奥方様?あなたは一体…」
楸瑛が口を開きかけたときだった。
速度を落としていた軒は目的地に着いたのか、静かに停止する。
御者に声をかけられ、楸瑛は百合を下ろすべく降り立ち、目を見張る。
「楸瑛?!」
何故なら、そこは見慣れた邸の門前で、そこで人待ち顔で立っていたのは、楸瑛の良く知った人物だったからだ。
「絳攸?これは一体?」
「それは俺の台詞だ。いきなりどうしたんだ?訪ねてくるなら訪ねてくると文の一つも寄越すなりすればいいだろう」
互いに怪訝な表情で顔を見合す二人に軒の中から第三者の声が割り込む。
「絳攸、楸瑛様にはうちの軒が溝に嵌って難儀していた所を助けていただいたのですよ」
「百合様?!」
その声に門前に立っていた絳攸は慌てて、藍家の軒に駆け寄る。
唖然としている楸瑛を尻目に、絳攸の手を借りて軒から降り立った、百合はにこりと楸瑛に微笑みかける。
「楸瑛様、お世話になりました。申し遅れましたが、わたくし、紅黎深の妻で百合と申します。いつも義息子がお世話になっています」
百合は優雅に膝を屈め礼を取る。
「百合姫様…でしたか」
やられたとばかりに、楸瑛が呟く。心なしかその表情は引きつってみえ、百合は悪戯が成功した子供のような顔になる。
「楸瑛様、これからも絳攸のこと宜しくお願いしますわね」
絳攸は、状況が今いち飲み込めていないようで、楸瑛と百合を見比べ、何か言いたそうにしていたが、百合に呼ばれ慌てて踵を返した。
家人たちに促されると、百合は絳攸を伴って、長くひいた裳裾を引きずり邸の中へと去っていった。
 
 
後日、百合は夫である黎深に向かって、『藍楸瑛様は中々素敵な若者だと思いますわ』と言ってのけ、益々、黎深の機嫌を悪くさせた。
絳攸に向かってはこっそり、『良い方と巡りあえましたわね』と囁き、義理の息子が目を白黒させるのを見て、至極ご満悦だったという




2007.10.29 UP


新刊発売前に一度書いておきたかった、捏造百合姫。今回は息子の恋人の品定め。ちなみに団扇は夏に使うあれではありません。黎深様が扇なので、百合様は団扇にしてみました。ふつーに中国の女性が使っていたあれです。






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