薔薇が眠れるまで
初めて『あの子』をみたのは、桜花の見頃も過ぎ、新緑の萌える
季節のことだった。
「今、何て言いました?」
楊修は眉を吊り上げ目を眇めると、今一度、聞き返そうと、自分の上官に問いただした。
「何だ、お前、もう耳が遠くなったのか?今度入ってくる新入りの面倒を見ろと私は言ったんだが」
「それは、今の状況をみて言ってるんですか?貴方の方こそ、もう耄碌したんですか。この状態で、尻の青いお子様の面倒をみるほど、私は暇じゃないんですけれどね」
パタリ、パタリと優雅に扇を揺らしながら、紅黎深は窓の外の若木に目をやっている。
人事を司る吏部は、今年度の春の叙目をようやく終わらせたばかりだった。
その間に滞りがちだった、他の業務に取り掛かるべく、まだまだ忙しい時期である。
積極的に仕事に取り組むことをしない上官の煽りをくって、楊修は上への取次ぎと、他の吏部官たちへの采配をするべく、体が二つ欲しいくらいに忙しい。
今も、楊修の机案の上には未処理の書翰の山がうず高く積まれている。
「お前が、人が欲しいと言ったから、手配をしたのではないか」
「そういう問題ではないでしょう!」
楊修は苛立ちに任せて、思わず黎深の机案を乱暴に叩く。
そのはずみで、黎深の机案に載せられた書翰の山が崩れ、何枚かが床に落ちるが知ったことではなかった。
確かに人は欲しいと言った。
六部の中でも出世街道と言われる、吏部へ希望するものは多いが、実際には激務に耐えられず、移動を願いでるものも多い。
先日、他部署から移動してきた官吏は一月もしない内に、元いた部署に戻してくれと泣きついてきたのだ。
楊修の意を汲んで動ける即戦力となる人材が欲しいと言ったのに、よりにもよって、つい昨日まで進士だったものを楊修の下につかせようとはこの上官は一体何を考えているのか。
「今年の吏部配属になる進士は二名。藍楸瑛と李絳攸だ」
「それは知っていますよ」
「お前が、面倒を見ろ」
堂々巡りの会話に楊修の苛立ちは頂点に達する。
「何が悲しくて、藍家の若様のご機嫌取りを私がやらなきゃならないんですか!?それにもう一人は、貴方の養い子でしょう!何でもかんでも面倒ごとを人に押し付けないで下さいよ」
「二人はやはり面倒か」
「当たり前でしょう」
話にならないとばかりに楊修は自分の仕事に戻ろうとするが、それをみて黎深は何事か考えるようにパチリと音を立てて扇を閉じ、楊修に一束の書翰を放って寄越す。
「なら、それをみてどちらか一人に決めろ。もう一人は他の官吏に任せる」
「嫌だと言ったら、どうします?」
「どうにもならんな。霄宰相からの命だからな」
黎深は表情を変えることもなく、再び扇を開き、つまらなさそうに揺らし始める。
それを聞いて、楊修は益々いやそうに、眉を顰める。
「まったく、こんなときだけは、六部を統括するのがあの狸爺だってことを思い知らされますよ」
楊修は渋々と言った表情で、報告書に目を通す。
それには魯官吏が振り分けた仕事の内容、それに対する対応の仕方などが、こと細かく書かれていた。
(まぁ、最年少状元及第、榜眼は伊達ではないといったところか)
国試の回答を見ても二人とも素晴らしいものだった。
しかし、藍楸瑛の方は、官吏を志す理由の欄をみて、あまりに解答が模範的すぎるところが気になった。
十年近く朝廷と一線を引いてきた藍家が沈黙を破って、直系を送り込んできたことに、どうにも、策略めいたもの感じるというのが楊修の勘だった。
「どちらかを選べというなら、李絳攸を選びますよ」
暫し、考えた後、楊修は答えを出す。
その答えを聞いて、黎深の扇を揺らす手が、ほんの一瞬、止まったのを楊修は見逃さなかった。
こんなのでも一応、親として心配はしているのだろうか。
そんな感想を持ったのだった。
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