花鳥風月

〜風の章〜

「遅い…」
絳攸は読んでいた書物から顔をあげて、チラと格子の収まった窓の外をみる。
もう、約束の時間はとうに過ぎている。

今夜空けておいて欲しいと言ったのはあいつの方なのに。
(案外、急にこられなくなったとか言うんじゃないのか)

先ほどから、読み進めているはずの書物は頁は捲られるものの、ちっとも内容が頭に入ってこない。
それというのも、昼間見た光景が忘れられないからだった。

楽しそうに会話を交わしながら歩く楸瑛と珀明という珍しい組み合わせに、丁度反対側の回路にいた絳攸は目を奪われた。

別に、あの二人が何の話をしていようと関係のないことだったが、親しげな様子が何となく引っかかりを覚えたのだった。
そのときは、胸に釈然としないものを抱えながらも、楸瑛の弟絡みのことでも話しているのだろうと思って、その場を立ち去ったのだった。

だが夜半、吏部に居残っていた官吏に世間話のついでのように、珀明が楸瑛と連れ立ってどこかへ出かけていったということを聞き、胸に靄が立ち込めたのだった。

そして、今に至る。

「別にあの常春が来ようが来るまいが、俺には関係のないことだ」
「それはひどいね」
再び、本に目を通そうとしていた絳攸はふいに背後から抱きしめられ、飛び上がらんばかりに驚いた。

「し、楸瑛!いつの間にきた!」
「うん?たった今だけど。声をかけようとしたけど、君、何だか落ち着かな気だったし」
見られていたのかと思うと、羞恥で顔から火が出そうだった。

「何か気になることでもあるの?」
「う、うるさい。貴様には関係のないことだ!」

耳元で囁かれ、絳攸は慌てて楸瑛の腕の中から逃れようと、もがきはじめる。
その様を、楸瑛は楽しそうに眺めているが、良い加減、絳攸が本気で怒りはじめる一歩手前を見計らったように漸く腕の力を緩め、解放する。

「随分と忙しいんだな」
「心配してくれた?」

厭味のつもりが、どうやらこの男には通じないらしい。

「ちょっと用事があってね」
「ほう…」

瞳を眇めて、楸瑛をみつめるが、それさえも相手を喜ばせているのか、楸瑛は口の端に浮かべた笑いを崩さないままだった。

「どんな用事かは知らんが、うちの若手を悪の道に誘い込むのだけはやめてもらいたいものだな」

言ってしまってから絳攸ははっとした、これでは、まるで悋気をみせる女房気取りではないか。

「ああ、珀明君と出かけたことを聞いたのか。良い子だよね彼」

どうやら、絳攸の含みには気がつかなかったらしい。絳攸は一先ず胸を撫で下ろした。

だが、まだ、多少の引っ掛かりを覚える。

確かに珀明は素直で、おまけに仕事も覚えが早く、気が利いて、良い少年だと思う。

それに、同性である絳攸からみても可愛らしい顔立ちをしている。
楸瑛に懐いているのかどうかは疑問だったが、一緒に出かけるくらいなのだから、親しい間柄なのだろう。

「どうしたんだい、急に黙りこくって」

「別に…」

悪態なら、いくらでも口をついて出てくるのに、こと自分の気持ちを曝け出すということとなると、どうしても虚勢を張ってしまうのだ。

「面白い子だと思うよ。君のこと好きで好きでしょうがないところとかね」

楸瑛はおかしそうに、肩をふるわせて、夜市に出かけた訳を絳攸に語った。その話は絳攸にとって、寝耳に水だった。

   珀明が、俺のために?」
「そう。君はどのお茶も文句なく飲んでくれるから、逆にどれが好みなのかも分からないんだそうだよ」
「俺は、人が入れてくれるものはそれだけでありがたいがな」

『だが、そうか好みか−』と絳攸は呟く。
自分がまったく見当違いの嫉妬に駆られたことが改めて恥ずかしく思え、絳攸は頭に手をやる。
「納得してくれたかい?」
楸瑛に言われ、自分の気持ちを見透かされていたようで、それはそれで癪に障る。

「何をだ」
「私は、君一筋だってことをだよ」
至近距離で見つめられ甘く囁かれるが、そう簡単に絆されるほど自分は可愛い性格をしていない。
「くだらんことを言ってないで、用意してきた酒とやらを出せ!」

「はいはい。君の好きな葡萄酒。肴は君自身が良いな」
常春に相応しいおかしなことをほざきながら、絳攸の杯に赤い液体を注ぐ。

それを飲み干しながら、自分が一番堕ちていると、酔いの回りと共に絳攸は思った。



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