溺れる魚 

 

絳攸は漆塗りの箱を、複雑な表情でみつめていた。

中には紅色の房飾りのついた、天鵞絨の布が敷いてある。

さすがは、紅家のお抱えの職人が作るものだけあって、螺鈿が施された箱だけでも、

庶民の感覚からすれば、ゆうに三年は一家が食うに困らないものだろう。

だが、今、絳攸がみつめているのは、箱でも布でもない。布の中に埋め込まれた一対の耳飾であった。

「やはり、踏ん切りがつかないな…」
絳攸は、困ったように何度目かの溜息をついた。

 

ことの起こりは、数日前、養い親に本邸に呼び出されたのがそもそもの始まりだった。
久しぶりの息子の帰還に養母はとても嬉しそうに迎えてくれて、その様に自分の不義理を絳攸は詫びた。

だが、呼び出した張本人である黎深は姿を見せることなく、代わりに不在を告げる文とこの小さな漆の箱だけが、絳攸を出迎えた。

養い親の気まぐれには慣れていたが、やはりこうした仕打ちをくらうと多少なりとも気が沈む。

文を読み返してみても、詫びの言葉など見つかるはずもなく絳攸はそっと溜息をついたのだった。

そうして、文の最後に卓子の上に置いてある小箱を持って帰るように。と書いてあった。

一体、これは何であろうかと、絳攸が蓋を開けると、そこには一対の耳飾が納まっていた。

 

「これを着けろということなのだろうか…」
美しい瑪瑙の赤石の耳飾。それがここ数日、絳攸を悩ます要因となっていた。

今、絳攸の耳には翡翠の耳飾が存在を示している。

身を飾る趣味はない絳攸だったが、これは黎深からもらったもの。たとえそれが、気紛れからおきたことであり、贈る意思とは別のところにあったものだとしても、初めてもらった形あるものとして、大切にしていた。

絳攸は何年も、『紅』性ではない自分の存在価値について悩んでいた。だが、それは潔ツから聞いた、自分の名の由来を知り、紅性に囚われることなく、自分は自分として、黎深に仕えようと、前を向くことを決意した。

だが、長年抱えてきた劣等感はそう簡単に消えるはずもなく、急にこうしたものを贈られても、どうして良いか分からないというのが現状だった。

「俺が、紅を身につけても良いのだろうか」

自邸に帰ってその箱を見るたびに絳攸は、手を伸ばすが、結局付けるに至らず、今夜もまた、悪戯に時を過ごしているのだった。

いくら絳攸が悶々とした悩みを抱えていても、世の中はそんなこと知ったことじゃないと言いたいのか、静かな夜に相応しからぬ、怪音が突然聞こえてきた。

『ぴー、ヒョロー』と響く笛の音らしきものは気のせいか段々自分の屋敷の方に近付いてくる気がした。




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