溺れる魚 2

 

「何だこの音は?」

絳攸は思わず、伏せていた卓子から身を起こす。
あろうことか、段々と近付いてきた怪音は絳攸の邸の前で、ピタリと止んだ。

音が止んだことにほっとする反面、妙な胸騒ぎを覚えて絳攸は記憶を手繰る。

確か、春先の国試の頃、おかしな笛の音が響いて眠れない等と、予備宿舎の試験監やら、
その他にも実に多々に亘るところから、吏部に直訴状ともいえる苦情がきていたなと思い出す。

その怪音の主は…一つの名前に絳攸は結びつき、絳攸は乱暴な仕草で椅子から立ちあがる。

「あいつら、兄弟揃って、俺を馬鹿にするにもほどがある!」
これが騒ぎにでもなって、万が一、黎深が聞きつけたりした日には、黎深の機嫌は目に見えて下降線を描くのは明らかだった。
紅区で騒ぎを起こした藍家本元など、洒落にならない。

只でさえ、良好とはいえない関係らしい、藍家当主たちに対して黎深がどのような報復措置をとるのか。
考えただけで、眩暈がしそうだった。

絳攸は急ぎ、文をしたためると、家人を呼ぶ。

「誰か、すまないが、藍区の藍本家別邸に使いに言ってくれ。そこの主に一刻を争う事態だと言って、これを渡してくれ」

墨の乾く間ももどかしく、殴り書きのような字で書かれたそれを家人は、絳攸の一刻を争う事態という言葉に緊張した面持ちで頷いた。
とにかく、音が止んだ今を逃さずに捕縛して、笛吹きの兄である、あの常春頭に熨斗をつけて押し付けなければ。
絳攸はわなわなと拳を怒りのままに震わせ、そう誓うのだった。

 

絳攸が夜着の上に一枚、羽織っただけの姿で、邸の門をくぐる。
するとそこには往来の真中で、笛を手にしたまま、夜空を仰ぐ奇怪な人物が居た。

その人物は、絳攸が歩みよってくることなど、然程も気にしていないようで、まったく動きもせずに上を向いたままであった。

「ふむ、何と見事な月であろう。やはりこの角度から見る月が一番美しい」

感心したような声音で呟き、その人物は、横笛を再び、唇に当てようとする。

「紅区で、その傍迷惑な笛を吹くのはやめてもらおうか、藍龍蓮」

絳攸はその横笛を掴み、唇にあてようとするのを阻止した。
龍蓮は、突然止められたことに驚くでもなく、ゆっくりと視線だけを絳攸のほうに向けたのだった。

「この笛の音の心に響く様が理解できぬとは、やはり愚兄その四の親しき友だな」
「心にではなく、頭にの間違いじゃないのか」

しばし、笛を掴んだままの、絳攸と、掴まれたままの龍蓮の間で、沈黙が落ちる。

絳攸とて、相手は藍龍蓮だということを重々承知している。
いくら、奇人変人の形をしていても、その見た目で判断してはいけない。下手に気を抜けば、何が起こるか分からない。

真夜中の夜空より尚、暗い色をした瞳と、色素の薄い藤色の瞳がしばし互いの真意を探るかのように、交差する。




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