溺れる魚 6

 

「まったく、驚いたよ。君からの文をもらったときは何事かと思ったよ」

楸瑛は、二人きりとなった部屋で、絳攸と向かい合っている。

龍蓮は、楸瑛が連れて帰ろうとしたのを断り、行くべきところがあると言って、騒動の元となった傍迷惑な笛を吹きながら出て行ってしまった。

「それはこちらの台詞だ。なんで、よりにもよって紅区に来たんだかな」

一迅の竜巻のように前触れもなくやってきて、来たときと同様の唐突さで去っていった龍蓮を思いだし、溜息をつく。

「それより、絳攸、本当に良かったのかい?」

楸瑛は、今や、片方だけとなってしまった耳飾に手を伸ばし、そっと触れる。
さらりと手にかかる柔らかな髪の感触が心地よい。

龍蓮は手にした翡翠の宝石を欲しがった。その声に真摯な響きを聞いてとり、絳攸は片方だけならばと龍蓮に渡したのだった。

「ああ。ああでもしなければ、俺は踏ん切りがつかないからな」
「踏ん切り?」

途中から、話に加わることとなった楸瑛はことの次第を全部知っているわけではなかった。

だが、絳攸が常に身につけているものが、黎深から贈られたものだということは以前、絳攸から聞いていた。
その大切なものを手放しても良いほどの何かがあったというのだろうか。

「あるものを黎深さまから受け取ってな」

絳攸は立ち上がると、螺鈿の細工が施された美しい小箱を持ってくる。
蓋を開けた楸瑛
は、中にある耳飾を見遣って片眉をあげる。

「縞瑪瑙かい?」
「受け取ったといっても、呼び出されて訪ねていったら、これが置いてあって、持って帰るようにと書いてあっただけなんだが」

それで、ここ数日何か思い悩んでいる様子だったのか。と楸瑛は得心がいった。

「意味を問いただそうしても、黎深様は応えてくださらないし、果たしてこれは俺宛なのか、それとも別の誰かに渡せという意味なのかと分からなくなってな」

苦笑して絳攸は耳飾が収められた小箱を楸瑛に渡す。

「これは、間違いなく君宛だと思うよ」
「何故、そう思う?」

楸瑛は、耳飾を片方摘みあげると、手にとって眺める。
紅の縞瑪瑙。紅色は黎深との繋がりを、そして、紅の中の縞はさながら流れる水のようで、絳攸の名そのものを表現している。

その意味するところとは、これを身につけている絳攸に手出しすることは、紅黎深を相手にすることになるぞという、牽制の意味も含まれていると見て取ってよいだろう。

(恐ろしい方だなあの方は)

「だって、君に持って帰るように言ったのだろう。あの方が、他に渡す相手といっても限られているし、秀麗殿だったら、もっと若い娘に相応しい華やいだ細工にすると思うよ」
「そうか。ならば俺が身につけても良いものなんだな」

絳攸は、自分に贈られたものであろうと思いながらも、万が一違っていたらとも考え、ここ数日を晴れぬ気持ちでいたのだった。

だが、龍蓮の言葉によって、霧は晴れ、楸瑛によってそれは確信へと変わった。

「しかし、紅尚書殿も周りくどいやり方をするね」
「あの方は、俺の反応をみて楽しんでいるんだ」

苦虫を噛み潰したような表情で言うものの、その声音には今回の思いがけない贈り物に対する喜びが隠しきれずにいた。

「楸瑛…」
「ん、何だい?」

名を呼ばれた楸瑛は、視線を絳攸のほうに移す。

「その、もし迷惑でなければ、それをつけて欲しいんだが…」
「私の手でかい?」

どこか言いづらそうに、視線をはずして絳攸は照れたように明後日の方向を向く。
その姿は、言葉に尽くせないほど、可愛らしい。

普段、甘えたり、何かをねだったりすることのない、絳攸の精一杯の好意の表し方だと分かってはいるが、他の男から贈られたものを恋人である自分につけて欲しいとは、中々難しい注文をするものだと思った。

「あ、いや、何でもない。藍姓のお前に変なことを頼んだ。忘れてくれ」

楸瑛の態度をどう思ったのか、絳攸は困ったように笑って、先ほどの言葉を撤回する。
藍家の人間に、手づから紅家の印をつけてくれと頼むのもお門違いだと絳攸は言う。

「いいよ。こちらを向いて」

楸瑛は、絳攸を引き寄せると、片方だけの翡翠の耳飾を取り、代わりに一対の紅い縞瑪瑙を彼の耳に飾る。

それは、絳攸のためだけにあつらえたのだろうと言わずとも知れるほど、しっくりくるものだった。




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