主よ人の世の喜びを


一台の豪奢な軒が、あぜ道を走っていた。
庶民の感覚からすれば、一生かかっても、その軒の屋根すら買えないであろう贅を尽くした造りだった。
だが、その軒の中で揺られている若い主は、彫りの深い整った容貌を沈痛な面持ちに歪ませていた。
「兄上…」
軒の主、紅黎深は呟いて、扇越に溜息をつく。
本来ならば、新年の祝賀の行事など、長兄である兄が当主の席に座るべきはずなのだ。
それなのに、何故、自分があの席に座らなければならなかったのか。
馬鹿な親戚共や父がこぞって兄は当主の器ではないなどと、言い出さなければ兄は紅家の当主として君臨し、いつまでも自分の傍らにいてくれたはずなのだ。
今からでも遅くはない、自分が何とかするから紅家に戻るべくきだと、説得しても結局物別れに終わってしまった
 
何故なのです、兄上!兄上は私をお見捨てになるおつもりなのですか!』

黎深にとって、兄だけがたった一つの希望だった。
それがなくては生きていかれない。恥や外聞など関係ない。他人にどう思われようと、たった一人の人さえいればそれで良い。
多くは望まない。望むものは、たった一つなのに。
『黎深。すまないね』
兄は自分がこう言うといつも困ったような表情で、決まって言う。
『兄上が謝罪なさることなど、何もありません。私はっ…!』
『黎深』
昂ぶる気持ちのまま、言葉を紡ぎだそうとした黎深の言葉を潔ツが珍しく遮る。
『黎深、君の手は二本あるね』
『兄上?』
一体、兄は何を言いたいのだろう。
『私の手も幸いなことに二つある』
『はい…』
黎深はまったく違うことを話し出した兄に訝しげな表情を向ける。
『この間ね、男の子を拾ったのだよ。静蘭と言うのだけどね。片手を繋いでいた秀麗が私を引っ張るんだ。何事かと思ったら、男の子が倒れていたんだ。両手を秀麗と繋いでなくてよかったよ』
潔ツは、穏やかな表情ににこやかな笑みを浮かべ、そのときのことを語りだした。
『だってねえ、もし秀麗と両手を繋いでいたら、静蘭を助け起こしてあげられなかったからね』
『確かに、両手を繋いでいたら、助け起こせませんでしたね』
それが、どうしたというのだろう。自分にとって聞きたいのは兄がこの先、自分の元に帰ってくれる気があるのかということだけなのに、何故、そのようなどうでも良い、行き倒れの子供のことなど聞かされなけれでばいけないのだろうか。
『黎深、君は私と両手を繋ごうとしているのだよ。片手は、君の大切なものの為にいつだって差し出せるように空けておきなさい』
その答えが見つかったとき、私は君の空いた方の手と改めて手を繋ごう。
そういって、潔ツは黎深に帰るようにと促したのだった。



TOP NOVELTOP 次へ