空蝉 |
「良い酒が手に手に入ったんだ。一緒に飲まないかい?」
腐れ縁であり、世で言う双花菖蒲の片割れである、藍楸瑛はいつものごとく口元に笑みを刷いて、絳攸に話しかけてきた。
絳攸は、吏部に戻るため、大量の書やら、巻物やらを抱えながら、脇に並ぶ片割れを横目でチラリと見遣る。
「お前には、これが見えないらしいな。俺は今日中にこれらに目を通さなければならないんだが」
「相変わらず、大変そうだね。では、時間が作れそうならということで、どうだろう?」
呆れたように吐き捨てれば、楸瑛は、どんな女性でも参ってしまいそうな、魅惑的な笑顔で応える。
「わかった。だが、おそらく、無理だろうがな」
絳攸のつれない返事にも、楸瑛は相変わらず嬉しそうに頷く。
「いいよ、私も今夜は遅くなりそうだしね。君と過ごせるかと思うと夜が待ち遠しいね」
「なっ、おかしな言い方をするな!誰かに聞かれたら、誤解されるだろう!」
艶を込めた声で囁かれた、ふざけた台詞に絳攸は眉を吊り上げ、怒鳴り返す。
「はいはい、そう大声をださない。行き交う人々が何事かと見ているよ」
楸瑛の言葉にはっとして周囲を見渡せば、回廊を行く官吏たちが、鉄壁の理性と言われる、李侍朗の大声に何事かと、目を丸くしてこちらを見ている。
絳攸は慌てて、口を噤み、気恥ずかしさに僅かに頬を赤らめながら、黙って歩みを進める。
「鉄壁の理性と謳われる君が、実は意外と気が短いなんて知っている人は、そうそういないのだろうね」
楸瑛の揶揄するような口調に、絳攸は悔しそうに睨んでくる。
『李侍朗』朝廷の若き才人などとして、ときに憧憬の的となる彼は、本当はこんなにも表情が豊かなのだと知っているものは少ない。素の彼の表情が見られるのは極親しい物に限られる。そう、絳攸が認めた数少ない人々だけ。
それは、とりもなさずに自分は『特別』だと言われているようで、嬉しくなる。
本当の願いはもっと別のところにあるのだが、今はこれだけでも十分と思える。
「では、また夜に迎えにくるよ」
楸瑛は、そういって、素早く絳攸の手を取ると、その甲に接吻を落とす。驚きのあまり大きく瞳を見開いている絳攸が正気に帰る前に、手を離すと楸瑛は元来た回廊を引き返していった。
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