空蝉 伍 |
「そんなことは絶対にない」
官舎を目指していたはずが、いつの間にか違うところに迷い込んだらしいと絳攸が気がついたのは、半刻ほど経ってからのことだった。
自分は、どうしてこうも肝心なときに役にたたないのだろう。絳攸は内心で、自分の方向感覚のなさに溜息をつく。
どうやら、後宮の方まで、来てしまったらしい。絳攸は堤燈に照らしだされた建物を見上げ、結論付ける。
今は、仕えるべき主のいない後宮。だが、人気のないはずの欄干に腰掛けて天を仰ぐ、人影があった。
その人影は、よく見知ったものであり、絳攸がまさに訪ねていこうと思っていた探し人であった。
「しゅうえ…」
声をかけようとして、思わず躊躇う。
月明かりに照らし出された横顔は、いつもの笑みを刷いた余裕めいた様は態を潜め、自分が見たことのない厳しい表情をしていた。
絳攸は見知らぬ男を見るような錯覚に陥る。
進むことも戻ることもできず、絳攸はその場に暫く立ち尽くしてしまう。
どうしたものかと考えあぐねていたとき、静寂を破る声が、その場に響いた。
「楸瑛様…」
甘えを含んだ、それでいてどこか切ないような女の声。
楸瑛は、その呼びかけに天空へと向けていた視線を初めて地上へと戻す。
絳攸はぎくりとして、咄嗟に物陰へと身を隠した。
「姫、このような時間にどうされました?見つかれば女官長にお叱りを受けますよ」
嗜めるような楸瑛の声にも耳を貸さず、女官は楸瑛の胸へと顔を寄せる。
すると、楸瑛は慣れた様子でその腰に手を回す。
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