空蝉 六 |
物陰に隠れている為、絳攸からは二人の表情までは見えないが、甘えと媚を含んだ女の声に耳を塞ぎたくなる。
同時に、そういうことだったのかと得心がいく。
飲もうと誘ってきたときに、楸瑛は『今夜は遅くなりそうだから』と言っていた。
あの女との約束があって、それまでの時間潰しとして自分を酒の相手に誘ったのだと思えば、辻褄は合う。
もしかしたら、文だけ届けておいて、あの女が来るかどうかは賭けだったのかもしれない。
来なかった場合でも、絳攸がいれば酒を飲み交わす相手は出来る訳だから無為に時間を過ごしたことにはならないだろう。
別に何一つ絳攸が腹を立てる理由はない。
それなのに、胸がつかえ叫びだしそうな自分がいる。
これ以上この場にいて、惨めな思いをしたくない。絳攸は踵を返し、そっと元来た回廊を戻っていくのだった。
彼は、花から花へと気ままに飛び回る、蝶のようなもの。
それを咎めだてする権利は絳攸にはない。
「帰ろう…」
決して、一人のものにならない男に愛を請う女を哀れだと蔑んでいたのは、過去のこと。
それでも、一夜の夢をみたいという女は愚かなのだろうか。
そんなことを考えながら、ふと顔をあげれば庭園にそっと咲く花が目に入った。
夜にしか咲かぬ花。月の下でひっそりと咲く白い花をみて絳攸は立ち止まった。
「夜に咲いても、蜜を吸うものはいないのにな」
それでも、中には気まぐれを起こした、おかしな蝶が蜜を求めに来るかもしれない。そうして、ただひたすらに咲き続けているのだろうか。
絳攸は、夜露を含んだその花をそっと手折り、抱えた藍色の衣の上に乗せる。
大丈夫。朝が来ればこの想いなど消え去ってしまうから。
「せめてこの花が咲いている間だけは、想っていてもかまわないだろう?」
誰に聞かせるまでもなく、そう呟くと、月明かりの差し込む長い回廊を歩んでいった。
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