今 愛に生きます 4
 

(ひいいーっ)
 楸瑛は迫ってくる黒い塊を凝視しながら、声にならぬ悲鳴をあげた。

「どうしました、楸瑛。さ、早く食べなさい」
 笑ってない瞳が楸瑛を覗き込む。それは無言の圧力だった。

 楸瑛は自由にならない言葉の代わりに、首をふるふると振った。

 絶対、身体によろしくない。
 ついでに言うなら、この人が自分の父親だなんて絶対嘘だ。親の情というより明らかに悪意を感じる。

 そのまま無言で見詰め合うこと暫し。楸瑛にとっては一刻にも二刻にも感じられた。

 すると楊修が先に手を引いた。余裕の表情で「困りましたねえ」と、のたまう。

「どうしました?」
 ちょうどお茶を淹れ終えた絳攸が、楊修の隣に来ていた。

「いえね。楸瑛が食べてくれないんですよ」
 楊修が困ったような顔を絳攸に向ける。

「それは――」
 絳攸の表情が曇った。

「私の料理が、下手だから……まずいから、楸瑛も食べてくれないんでしょうか」

「だあーっ」
 否定しようと、弁明しようと口を開いた。が、やはり言葉にはならない。

「まあ、確かに斬新ですけれどね」

 楊修はそう言うと、別の一つを摘み上げて、ぱくりと口に入れた。――明らかに、色も匂いも悪くないものを選んで。

「食べられないようなものじゃありませんよ。まあ、これはこれで味わいがある」

 この間より少しは上達しているようですしね。その言葉に絳攸の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」

 してやられた、と楸瑛は天を仰いだ。とてつもなく敗北感である。

「だあーっ、あーっ」
「おや、ようやく食べる気になったのかな」

 楊修が、例の口端だけを上げた笑みで楸瑛を見ると、先ほどから持っていた黒い塊を、楸瑛の口の中へ押し込んだ。

 拒否する間もなくそれを受け入れて、口の中に広がる焦げ臭さと何ともいえない味に、楸瑛は必死で耐えた。

(絳攸の、手料理――)
 もはや呪文である。ただその一心で、一生懸命噛み砕き、飲み込む。

「よく出来ました」
 全て飲み込むと、楊修が少し感心したように言った。

 この口が回るものなら、文句とか皮肉とか、その他諸々盛大に言い返してやりたいのに。楸瑛はわが身を呪った。

「ところで、楊修様。このまま楊修様もお食事になさいますか。それとも、先に湯浴みをなさいますか」

「ふむ」

 楊修はそこでふと考えるような仕草を見せた。楸瑛は何となく背筋が寒くなるような気に襲われた。

「絳攸。最近庶民の間では、そういう時には二択ではなく三択にするのが流行りのようですよ」
「三択、ですか?」

「ええ。食事か、湯浴みか、それとも『私か』と訊くんだそうです」

「わっ――」
 絳攸が顔を真っ赤にして絶句した。楸瑛は青くなって固まった。楊修が一人、意地の悪そうな笑みを見せる。

「まあ、いかにも俗っぽい、くだらない遊戯だと思いますが、たまにはそんな趣向も悪くないんじゃないかと思いましてね」

 そう言って楊修が絳攸に顔を近づける。
 ちょっと待って! と楸瑛は声を最大にして叫びたかった。

「うー、あーっ」
「よ、楊修様。楸瑛も見ています、から……」

 恥らったような絳攸の声も、「構いませんよ」と返す楊修の声も聞きたくなかった。

 今すぐ止めさせたい。叶わぬならせめて耳を塞ぎたい。この場から逃げ出したいのに。

「『楊修』でしょう。絳攸、愛していますか?」
「それは――――」

 二人の顔が再び近付いていった。楸瑛は思わず目を閉じた。そうして、力の限り叫んだ。

「もう、やめてくれっ!!」



 その場に響いた自分の声にびっくりして、楸瑛は目を開けた。

 目の前には絳攸も楊修もいなかった。
 視線の先に、天井が見える。

 ふと、自分の手を目の前にかざす。
 それは、剣だこのある、見慣れた自分の手だった。

 楸瑛はいつの間にか横になっていた身を起こし、室内をぐるりと見回す。
 それは、見間違うはずのない、自分の部屋だった。

「――――――夢?」

 自分の身体を見下ろす。それはいつもの、二十六歳の自分の身体だ。
 ほっとしたような、やりきれないような脱力感に、肩ががくりと落ちた。

(やけに生々しくて、――嫌な夢だった…………)
 じっとりと手に汗を掻いていることに気付く。まだ胸が早鐘を打っている。

 早く実物の絳攸に会いたい、と思った。


 その日出仕した楸瑛は、その想いを最優先に、真っ先に吏部を訪れた。

 外から一声かけて吏部侍郎室に入ると、中には先客がいた。何か絳攸と話をしていたが、楸瑛の姿を認めると、一歩下がる。

「どうした、楸瑛」
「いや、ちょっと、ね」

 まさか夢の内容を語るわけにもいかずに、楸瑛は言葉を濁した。

 先にいた官吏が、そんな楸瑛を見ると、口の端を上げるような笑みを一瞬見せた。その笑みに、楸瑛は既視感を憶える。

「では、私は失礼致します。仕事、よろしくお願いしますね」
 そんな楸瑛の引っかかりにはお構いなしで、その男は退出しようとした。

「ああ、李侍郎。その首筋の跡は、隠しておいたほうがよろしいですよ」
 去り際のその声、そしてその笑みに、記憶が呼び覚まされる。服装や髪型、全体の雰囲気は大分違うが、あの笑みは…………

 彼が去った後、二人になった吏部侍郎室で、楸瑛は思い切って聞いた。
「先ほどの彼、まさか『楊修』殿かい?」
「……よく、分かったな」

 自分の予想があたったことに、少なからず衝撃を受けている楸瑛を尻目に、絳攸は、「そんなに親しかったか?」などと、的外れなことを訊いてきた。

 けれど、楸瑛にはそれどころではなかった。

「ねえ、絳攸。まさかとは思うけれど、その首筋の痣――」
 そう、楊修が言い捨てていったように、絳攸の首筋には赤い小さな痣のようなものがあったのだ。

「それ、まさか楊修殿がつけたんじゃ、ないよね……?」

 絳攸が、その言葉の意味を理解するのに、暫しの間があいた。
 それから、絳攸の顔が見る間に怒りで紅潮する。

「ばっ……これは、昨晩蚊に喰われただけだっ! 自分基準で妙な誤解をするなっ!! この万年常春馬鹿っっ!!!」

 楸瑛は派手な怒鳴り声と共に、侍郎室を追い出されたのだった







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