きらきらひかる |
静かな室内に、料紙に筆を滑らす音が聞こえる。
それはやがて止み、満足そうな吐息が一つ漏れた。
「絳攸!終わったぞ!」
この室の主、国王、紫劉輝はようやく解放されたぞといわんばかりに、出来上がったばかりの書翰を渡す。
劉輝の声に絳攸は意外だといわんばかりの顔をあげた。
「どうした、今日はやけに早いな?」
「余もやるときは、やるのだ」
フフンと劉輝は鼻高々に威張ってみせる。
「いつも、これくらい集中して片付けてくれればありがたいのだがな」
「うっ…」
言葉に詰まる劉輝に構わず、絳攸は一言釘をさすと、劉輝の署名が終わったばかりの書翰に問題がないか目を通す。
最初の頃は頓珍漢なことばかりやっていた劉輝もこの頃、ようやく国王らしくなってきたというのが周囲の感想だった。
「まぁまぁ、絳攸、何はともあれ、主上がやる気を出されたことはいいことだよ」
二人のやりとりを黙ってみていた楸瑛がさりげなく助け舟を出す。
一区切りついたのを見計らった楸瑛は、冷たい茶に花を浮かべた見るからに涼しげな、茶器をことりと机案に置いていく。
「楸瑛、甘やかすな。お前がそんなだから、主上がのらくらしているんだぞ」
「そんなことを言われてもね。私は政務に関しては口を出す立場ではないからね」
絳攸の矛先をするりとかわして、楸瑛は優雅な仕草で冷茶を口に運ぶ。
絳攸は軽く、舌打ちをすると、再び書翰に目を通していく。
「いいでしょう。ほぼ合格です。これなら一応、各省に通達だしても問題なしだな」
顔をあげた絳攸の言葉に劉輝はぱっと顔を輝かせる。
「では、本日の執務はこれまでだな!」
うきうきとした声で劉輝が絳攸に問いかける。
「まぁ。そうですね」
不承不承といった様子で絳攸は頷く。
「ならば、付き合って欲しいのだ!」
「主上、いきなり付き合って欲しいと言われましても、お気持ちだけ受け取らせていただいて良いでしょうか」
楸瑛は、劉輝の唐突な申し出に、驚くでもなく、面白そうに受け流している。
「違うのだ!余が言いたいのはそんなことではない。今日は何の日だか知っているのか?」
「今日?七月七日だな」
「牽牛と織女の伝説の日だね」
それがどうかしたのかと首を傾げる絳攸と、女性達が好みそうな古い言い伝えをあげる楸瑛。
「今日は、願い事を書いて、笹に吊るすと、何でも叶えてくれる日なのだ。だから余は秀麗を妃に迎えたいとお願いをするのだ」
劉輝は執務机の上にどこからか持ち出してきた短冊を置くと、得意げに胸を張る。
「この日は、もともと芸事の上達を願う日だと思うんだが」
「違うのか?余は優しいお星様が、恋しいもの同志を結びつけてくれると聞いたのだが」
何でもかんでも叶えてくれるなど、そんな都合の良い話があるものかと絳攸は思う。
「絳攸、それは無粋というものだよ。愛しい人との縁を星願うなんて何とも素敵な話じゃないか」
しかし、楸瑛は大いに感じいったように頷く。
絳攸は楸瑛と、しゅんとうなだれてしまった劉輝を共に見やって仕方ないなと、ため息をつく。
「で、何をすれば良いんだ?」
「おや、絳攸。主上には随分と優しいんだね」
片方の眉をあげて揶揄する楸瑛を一睨みして、絳攸は目の前に並べられた色取り取りの短冊に手を伸ばす。
「まず、願い事をこれに書くのだ。書いたらこれに吊るすだけなのだ」
劉輝は笹の一枝をさし、嬉しそうに言う。
この為に、劉輝はいつになく真面目に政務に取り組んでいたのだろう。
「願い事?」
願い事といわれ、絳攸は考え込む。
『黎深さまが真面目に仕事をしてくれますように』もしくは『吏部官の負担が軽減されますように。
願い事と言われてもそのようなことしか思い浮かばない。
「君の願い事は恐らく、紅尚書に関することかな?」
絳攸が筆をとると、横から楸瑛が茶々を入れる。
「う、うるさい!そういうお前はどうなんだ?!どうせ、くだらん色恋沙汰のことだろう!」
「おや、私の願い事が気になるのかい?」
早くも何やらさらさらと書き付けた短冊を墨が乾くようにかひらひらと揺らす。
それが絳攸の視界を横切るのが鬱陶しい。
「でも、こればかりはいくら君でもみせられないんだ。すまないね」
そう言って、楸瑛は意味ありげに微笑んで、短冊を秘密だというように、自分の口許に持ってくる。
「ほう、楸瑛がそこまで隠すとは気になるのだ。まさか楸瑛にも想い人がいるということか?!」
「まぁ、そうですね」
劉輝はそれはぜひ聞きたいとばかりに机案から立ち上がり、身を乗り出す。
この艶聞の耐えない楸瑛に本気の想い人がいるとなると、劉輝でなくとも興味津々といったところだろう。
「あ…」
だが、続く楸瑛の言葉を破ったのは、絳攸が小さく上げた声だった。
絳攸が書いていた短冊は筆から落ちた墨がみるみるうちに広がり、黒い斑紋を作っていく。
「どうしたのだ?絳攸らしくもない。ぼうっとして」
「ええ、あの…すいません」
絳攸は顔をあげて、少し困ったような曖昧な笑みを浮かべる。
「その、少し胸のあたりがむかむかして」
おかしなことに先ほどの楸瑛の言葉を聞いたときから、ふいにもやもやしたものが胸の奥底から湧き上がり、まるで短冊に広がった斑紋のように自分の胸にも墨が広がったような感覚に陥ったのだった。
「このところの天候の変化に体が疲れているのではないのかな?」
楸瑛はすっと手を伸ばし、絳攸の額に手を当てる。
熱はないようだね。と楸瑛が呟くのが聞こえる。
ひんやりとしたその手が気持ち良いのに、同時に払いのけたい衝動にも駆られ、絳攸は混乱する。
「そうか。絳攸。体調が優れないのなら、もう帰ったほうが良いぞ。楸瑛、絳攸を送っていってやれ」
「いえ、一人で大丈夫です」
絳攸は慌てて立ち上がるが、その腕を楸瑛に捕まれる。
「では、主上、絳攸を送り届けたらすぐに戻りますので、失礼します」
有無を言わさず、絳攸は、楸瑛に引きづられるようにして絳攸は執務室を退室することになったのだった。