マリア様がみてる〜春〜 5

 

「絳攸、絳攸!ちょっと待って!」
楸瑛は、自分の前を競歩のような速さで歩く、友人の手首を捉える。先程、図書準備室で劉輝を怒鳴りつけてから、一言も絳攸は口を開こうとしない。
ただ、怒ったように前だけを見てひたすら歩き続けている。
「放せっ!」
「放しても良いけど、そっちは職員駐車場よ」
どう考えても、絳攸とは縁のなさそうな場所を挙げると、絳攸は漸く立ち止まり、気まずそうに、薄く頬を染める。
「ちょっと、どんな車が止まっているか気になっただけだ」
「そう…」
楸瑛に止められて、冷静さを取り戻した絳攸は一言小さくすまない、と謝罪の言葉を口にする。
「別に、気にしていないわ。それより、貴女らしくないわね。劉輝さまに突然あんなことを言うなんて」
普段の絳攸ならば、初対面の相手に対して、気に障ることがあったからと言って、あそこまでの態度は取らない。
確かに、楸瑛に比べて、人間関係の立ち回りは上手くないが、それにしたところで、あの反応は過剰だ。
「そうだな。仮にも、学園長の娘だ。あんなことは言うつもりではなかった」
瞳を伏せると、自分の気の短さに密かに恥じ入る。
「けど、どうしても許せなくてな。求められ、それに応えることのできる立場であるというのに、全てを見なかったことにしようとするあの態度がな」
もちろん、絳攸とて劉輝が心底、皆から必要とされているわけではないことは知っている。
劉輝を必要としているのは、学園長の娘である、紫劉輝が欲しいのであって、彼女自身を求められているわけではないということを。
「でも貴女からすれば、どういう形であれ、求められているということは羨ましいことよね」
楸瑛は、俯いてしまった絳攸の髪を優しい手つきで梳く。
この目の前の少女が、どうすれば黎深に拾ってもらった恩を返せるのかと、常々思い悩んでいることを知っている楸瑛は、絳攸の心情を思いやって、それ以上は何も言わず、傍らで微笑むだけに留める。
「劉輝さまには悪いことをした。謝らなければな」
もし、自分が劉輝の立場であったら、少しは黎深の役に立てるのに。
けれど、それはあくまで『もしも』という仮定の話に過ぎない。
絳攸は、絳攸のままで与えられた立場で、やれることをやるしかできないのだ。
「でも、謝るのと、劉輝さまに協力を申し出るのとは別だ。彼女の人となりを信用できなければ、こちら側の陣営に来てもらう意味がない」
「ええ。そうね。静蘭とやらに、舐められたままの私たちじゃないってことを証明してみせましょう」
楸瑛の言葉に当然だとばかりに絳攸も頷くのだった。
 



静かな、図書準備室に鼻を啜り上げる音が響く。

残っている生徒もまばらなのだろう、扉を隔てた廊下は時折、誰かの足音が聞こえる他は、話し声もしない。

「ひっく…、突然ごめんなさい。えと…」
「静蘭です」

ふわりと笑って少女は名乗る。

劉輝が泣いている間、静蘭と名乗った少女は飽きることなく側にいてくれた。

差し出されたハンカチを汚してしまったことを気にするでもなく、涙が止まるまでじっと待っていてくれる。

(本当に清苑姉上みたい…)

劉輝は洗い立ての石鹸の香りがする、ハンカチに半ば顔を埋めるようにして、どこか夢心地のまま、その香りを吸い込む。

「泣きたいときは、涙が枯れるまで、泣いたほうがいいと思うんです」

静蘭は何故、劉輝が泣いていたかとは一言も聞かずに、隣に腰を下ろし心に染み入る声でそんなことを言う。

「ありがとう。静蘭にはなんだか初めてあった気がしないから不思議…」
「あなたの姉上に私はそんなに似ているのですか?」

くすっと笑って、静蘭は問いかける。

「とても優しくて頭がよくて美人で自慢の姉だった」

劉輝は楽しかった幼い日々を思いだし、ぽつりぽつりと静蘭に語り始めるのだった。

「私は、本当はこんなところに居るべきじゃないのだ。学園長にふさわしいのは清苑姉上だけ」「そうでしょうか?私はそうは思いませんが」
今まで、黙って劉輝の話を聞いていた静蘭は考え込むような仕草をした後、口許に指をあて、視線を上の方へと持っていく。
「私は、妹がいないので分かりませんが、もし、私があなたの姉上だったら、悲しいと思います」
「悲しい?」
思いもかけない、静蘭の言葉に劉輝は瞳を瞬かせる。
「ええ。清苑さんのことが大好きだと言うなら、いつか清苑さんが帰ってきたとき、胸をはって頑張りましたって言えるようにしないと。これでは、どこかに居る清苑さんもあなたのことが心配で心配で安心できないと思いますよ」
静蘭の言葉は劉輝にとって考えてもいないことだった。
「姉上が私を心配…」
劉輝はその言葉を吟味するようにもう一度呟く。

「私は、間違っていたのだろうか?」

劉輝の言葉に静蘭は答えない。それは劉輝自身で考えろということなのだろう。
「さて、すっかり遅くなってしまいましたね」
ふと窓の外を見ると、夕日の差し込んでいた図書準備室は、今はすっかり日が暮れて、夜の闇が迫っている。
「そろそろ、帰りましょうか」
静蘭の言葉に劉輝もこくりと頷く。
本当は帰りたくなどなかった。清苑が居なくなって以来、始めて心を通わせた少女。
もっと、色々と話したかった。
だが、そんな劉輝の心情に気づいたのか、静蘭はドアの前で振り返ると、安心させるように微笑みかける。
「また、会えますよ。だって私たち同じ一年生でしょう?」
静蘭の言葉に劉輝の顔が、ぱあっと輝く。
「約束だぞ!静蘭」
劉輝は嬉しそうな表情のまま、途中まで一緒に帰ろうと持ちかけるが、静蘭は教室に忘れ物をしたから先に行ってくれとすまなそうに告げる。
「そうかならば仕方ないのだ」
;残念そうな声音のまま、去り行く劉輝に静蘭は手を振ってくれる。
今の劉輝にはそれだけで十分だった。
「ごめん、劉輝…」
だから、劉輝の姿が完全に見えなくなったときに発せられた静蘭の呟きは、その耳に届くことはなかった。
静蘭はどこか苦しそうに表情を歪めると、劉輝が去った方向をいつまでも見ているのだった。







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