ため息ドロップス
空はどこまでも高く晴れ渡り、入道雲はぐんぐんと流れていき、ここ数日気温は下がるということを忘れたかのように上昇中で、容赦ない日差しが地上に降り注ぐ。
「暑い…」
絳攸は耐えかねたように呟き、抱えた書翰の束に被害が及ばないように注意しつつ、官服の肩のあたりで流れ落ちた額の汗を拭う。
この春、無事に国試に受かり、史上最年少状元及第という輝かしい経歴を持つ彼も、朝廷では、只の新人官吏にすぎない。
先輩官吏たちにあれこれと用を言いつけられては、それに応えるべく帆走する毎日だった。
おまけに絳攸には一部の者のみ知る、とある困った理由があった為、他者よりもより多くの時間を移動にかけなければならなかった。
「まったく、人は通らない、敷地は馬鹿のようにだたっ広い!なんて非効率なところなんだ」
今日は、本来なら、公休日のはずなので、自然、行き交う官吏の数も平素に比べ少ない。
少ないが、書翰はどこからか涌いてでてくる。
絳攸は誰に対してでもない文句をぶちぶちと零しながら、それでも何とか、自分の所属する吏部に辿りついたのは、太陽が頂点から、少し傾いた頃だった。
「只今、戻りました」
「ああ、お帰り絳攸。今回は珍しく早かったね」
扉を開けると、そこには絳攸の指導官である楊修が机案の上で書き物をしていたが、絳攸が戻ってくるのをみると、顔をあげ、意地の悪そうな笑みを口の端にのぼらせる。
その言葉に絳攸はぐっと言葉に詰まる。
これが、同僚である藍楸瑛あたりから言われた台詞であったのなら、たちまち罵詈雑言の嵐でもって黙らせるのだが、相手が指導官となればそうもいかない。
もっとも、それを除いたとしても、この一癖も二癖もある楊修には敵わないだろうと想像はつくので、気まずそうに視線を逸らし、室内を何とはなしに見渡す。
「あれ?他の先輩方はどうされたのですか?」
絳攸が吏部を出て行ったときには、まばらとはいえ、何人かは居たはずだ。
「ああ、帰りましたよ。公休日まで仕事は嫌だといってね」
「え…」
絳攸はその言葉に、腕に抱えていた書翰をどうしたものかと途方にくれる。
公休日といえど、仕事が片付かなければ、出仕してこなければいけない。とはいえ、それはあくまで個人の判断によるものだから、帰ったところで誰も責められない。
前回も、前々回の公休日も棒にふっているのだから、その言い分は分からなくもない。
だが、この大量に頼まれた書翰をどうすれば良いのだろう。
「それは、依頼された書翰ですか?」
「はい。戸部から急ぎの件が3,4件あったと思います。後は確認したところ特に急ぎということではありませんでした」
「成る程、貸しなさい」
楊修は絳攸の抱えていた書翰を受け取り机案に置くと、簡単に目を通す。
絳攸が見ている前で楊修はあっという間に、その書簡を三つ程の山に分類していく。
そして最も多い山を手元に引き寄せ、残った二つの束のうち一つを絳攸に渡す。
「私はこの束を片付けるから、君はこれを処理しなさい」
「はい」
「ただし、ニ刻以内に片付けること」
「ええっ!」
驚いた絳攸の声をものともせずに、楊修は早く取り掛かりなさいと指し示す。
ここで、無理だと主張しても楊修は聞いてくれない。
ならば、寸刻の間も惜しいとばかりに絳攸も書翰の山と格闘をはじめるのだった。
「楊修さま、終わりました」
絳攸は最後の見直しを終えて筆を置くと、楊修の机案に出来上がったばかりの書翰を、きちんと端を揃えて提出する。
「きっかり二刻。時間だけは間に合ったね」
そうして楊修も、自分の持分を終えたのか、山は行く種類かに綺麗に分かれている。
楊修が添削している間、絳攸はどんな判断が下されるのかとどきどきしながら、相手の様子を伺う。
楊修は時折、微かに眉を寄せるような仕草をするが、それは別段出来が悪いということではないのか、すぐにまた変わらぬ様子で字面を追っていく。
すらりとした長い指が、何事か考えるように頤にあてられる。
玻璃の嵌った扉から入り込む、午後の日差しが、彼のかけた洒落た細工の眼鏡に反射する。それは、楊修の整った容貌を際立たせ、どことなく作り物めいた印象を与える。
絳攸はそれらをぼんやりと見つめる。
どうも養い親といい、何かと構ってくる同期の輩といい、貴族というものは本当に一つ一つの何気ない仕草でさえも、美しいものだなと、目の前の人物を前にして思う。
「絳攸」
「はい」
顔をあげた楊修に名を呼ばれ、いっきに絳攸は現実に引き戻される。
緊張した面持ちで、楊修の言葉を待つ。
「これは、もっと詳しい説明を入れて、分かりやすくしなさい。後はまぁ、一応合格。このまま進めて良しといったところか」
楊修は筆をとって、不足とされたところの添削を行い、絳攸に書翰を返す。
「あ、ありがとうございます」
珍しく、一回で合格とされた書翰を抱え、絳攸は心からの笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ絳攸。暑い中、お使いご苦労でしたね」
楊修はそういって、手招きする。
書翰を抱えて、指摘されたところを直そうと机案に戻りかけた絳攸は何だろうかと首を傾げながらも楊修の側に戻る。
「目を閉じて口を開けなさい」
「はぁ、こうですか?」
一体、何だろうと思いつつも、絳攸は言われるままに目を閉じ、口を僅かに開ける。
「頑張った君にご褒美ですよ」
口の中に放りこまれたそれは、甘さと同時にすうっとした清涼感が口いっぱいに広がる。
「飴?!どうして飴なんて持っているんです?」
「おや、気に入らなかったかな?侍僮達には中々好評なんですけどね」
口をもごもごさせながら疑問をぶつける絳攸に、楊修は面白そうに唇の端をあげながら、答える。
その答えを聞いた途端、絳攸は唖然とした。
朝廷で雑役をしてくれているあの侍僮とは。
10歳かそこいらの童と同じ扱いをされた絳攸はむっと唇を尖らせる。
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