峠の我が家






早春の空は淡青の色をみせ、高く澄み渡っている。

何日ぶりかの公休日。絳攸は珍しく日の高い内に外を歩くこととなり、ここ数日で随分と暖かくなった陽射しを実感しているところだった。

市の雑踏を通り抜けた絳攸はようやく見つけた目当てのものを、大切そうにもう一度懐に抱え直す。

絳攸は待たせてある紅家の軒を見つけ、向かおうとしたが、通り過ぎた商家から聞こえてきた歓声に足を止めた。

「幸せにおなりよー」

人々の囃し立てるなか、そんな声が混じる。

目をこらせば、婚礼衣装に身を包んだ花嫁が嫁迎えの軒に乗り込もうとしているところだった。

花で飾られた軒から降りたった、新郎に手を引かれて、帳の中に花嫁は姿を消す。
花嫁の顔は被った面紗で隠れていて見えないが、きっと幸福を一心に集めたような表情をしているのだろう。

それは見る人の心を暖かくさせる光景なのに、何故か絳攸の胸に一筋の冷たい風を呼び起こす。

やがて、幸せな二人を乗せた軒は紅家の軒の待つ方向とは逆に進んでいき、小さくなって見えなくなっていく。

彼女たちを見送っていた人々も口々に祝いの言葉や、各々の感想を述べながら、商家の中へと入っていった。

「絳攸様如何なさいました?」
「ああ、すまない。何でもない」

立ち尽くしていた絳攸に御者が訝しげな声をかける。

絳攸は、御者に一言詫びると、軒に乗り込む。

絳攸は揺れに身を任せながら、懐に抱いたままだった包みに目を落とす。

「百合さんは気に入ってくれるだろうか」

そっと袱紗を開くと、対の茶椀が現れる。

小さな掌に収まってしまいそうなほどのそれは、一見どうということのない白磁の陶器だが、描かれているのは、唐草模様に百合をあしらった珍しい図案である。

この日ばかりは、いつも忙しく各地を飛び回っている彼女も邸に戻ってくる。

十数年前のこの日に、黎深と百合は婚礼をあげた。今日はその大切な日なのである。

「結婚か…」

誰ともなしに呟いた言葉は聞くものとていないまま、霧散していった。

 

 



「おかえりなさい絳攸。外は寒かったでしょう」

「百合さん!帰ってたんですね」

邸に戻り外套を家人に預けていると、待ちかねたように、百合が室から姿を現した。

「ええ。たまには息子を迎える母をやってみたくてね。急いで帰ってきたの」

百合は少女のようにふふと笑う。その様は絳攸の目から見てもとても可愛らしいもので、この人はいつまでも変わらないなと思う。

「黎深様は?」
「さぁ?私が帰ってきたときにはいなかったわよ。またどこかでおかしなこと、やらかしてなければ良いのだけど」

百合は頬に手を添えて、困ったものだと溜息をつく。

「邵可様のところでしょうか…」

絳攸もまた、僅かに困った顔で呟く。

「だとしたら、つれなくされて終わりだわ。それよりも絳攸、珍しいお菓子があるのよ。お茶にしましょう」

百合はあっけらかんと言って、絳攸を茶に誘う。浅蘇芳の衣を翻した百合の後を絳攸も慌てて追うのだった。

 

 

 


四阿で茶をするには季節的にまだ早いとあって、室内で庭院の梅を眺めながらの二人だけの茶会となる。

窓際の卓子には、白茶と、饅頭、それに百合の土産であるという菓子が用意されていた。

「これは西方からの伝わってきたお菓子で、蜂蜜をつけて食べるのよ」

百合は嬉しそうに小麦粉を固めた菓子を絳攸に薦め、丁度小腹が空いていた絳攸は言われるままに手を伸ばす。

「おいしいです」
「そう。良かったわ」

自分が食べるよりも絳攸が食べるのを見ているほうが楽しいのか、百合は、少なくなった茶を茶椀に注ぐ。

中々忙しい身の上である百合とは顔を合わす機会が少ない。せめて、束の間の団欒くらいは余人を交えないで、二人きりの時間を過ごしたいのは絳攸も同様だった。

百合は自分が不在だった日々のことが気になるのか、他愛のないことを絳攸に訪ねては、それに対して応えるといった遣り取りが続く。

「あの、百合さん」
「何?」

一息ついたのを見計らい絳攸がおもむろに口を開く。

そうして、用意していた袱紗を百合に渡す。

「街で見かけて、良いなと思って。今日は百合さんと黎深様が婚礼をあげた日でもありますし」

「開けてみても良い?」

百合の問いかけに絳攸は頷く。

「可愛い…」

袱紗を広げ、現れた対の茶椀に百合は感嘆の声をあげる。

飯事の道具のように掌に収まってしまいそうな、可愛らしい大きさは十分に女性の気に入るものであったし、何より、描かれた模様は百合である。

毎年のことながら、黎深と百合に贈るものを考えていて、今年は何にしようかと街を彷徨っていたときに偶然これを見つけ、店主に取りおきを頼んでいたのである。

どうやら気にいってもらえたようだと思い、忙しい毎日の中、どうにか時間を見繕って選んだか甲斐があったと絳攸は嬉しくなる。

「安物で申し訳ないのですが」
「何を言っているの絳攸。私には何よりの宝物だわ。貴方のその気持ちが嬉しいのよ」

百合は対の椀を愛しむようにそっと桜貝の爪でもって縁を撫でる。

「本当に、私は幸せだわ」

満面の笑顔の百合とは反対に絳攸の表情はふっと曇る。

「百合さん、結婚って良いものなんでしょうね」
「絳攸?」

突然、表情を曇らせた絳攸に百合は小首を傾げる。

「街で婚礼を見かけたんです。それで、ふと思ったんです。本当なら、結婚していてもおかしくない年齢なんだなって」

絳攸は茶器に視線を落としたまま、ぽつりと呟く。絳攸の養い親である、黎深は自分の年にはもう結婚していた。
結婚して、家庭を構えて、子を作る。それが孝行だと、幸せなのだと世の人は言う。

確かにその通りなのだろう。けれど自分は―――。

どうにも考えが纏まらず思い切って百合に訪ねてみる。






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