椿姫


寒花がちらちらと、静かに空から舞い落ちる。
「これは、明日は相当積もるな」
漏らした言葉は白い靄となって、きんと冷えた空気に溶けていく。
絳攸は思わず、寒さに身を震わすと、抱えていた書翰が濡れないように、今一度胸にぎゅっと抱く。
王を急き立てて、押させた御璽が乾く間も惜しく決済を終えたそれを持って、彼本来の在籍する部署である、吏部へと戻る途中であった。

ここに、誰かいたのならば、つい先程も彼が同じ回路を通ったことを不思議に思うのかもしれないが、あいにくと回廊はこの寒さも手伝ってか、いつもは忙しなく行き交う官吏たちの姿も見当たらなかった。
「こんな日は早く帰りたいものだが果たしてどうか…」
尚書である黎深は出仕こそしているものの、相変わらず真面目に仕事に取り組む気はないようだった。
当然、その余波は絳攸を始めとした、吏部の官吏たちにくるわけで、たかだが雪くらいで、『今日は早めに帰りましょう』とはいかないのが現状であった。
今に始まったことではないかと絳攸は諦めの境地で思わず空を仰ぐ。
ふと、視線を空から、白く染まった庭院へと移すと、目に止まるものがあった。
一面の白の中で鮮やかに色づいた紅   
地に落ちて尚、その存在を主張するかのように、咲く赤い花。
「椿か―」
代わり映えのしない白い背景の中でそれだけが、色を持っていた。それに何故か目を離せないまま、暫し立ちつくす。
絳攸は躊躇した後、回廊を下り、庭院へと足を踏み出す。
庭院を白く覆った雪が履を濡らすが、構わずに側まで来ると落ちていた、一輪を拾いあげる。
絳攸は手にした花に口の端に笑みを浮かべると、再び、大事そうに胸に書翰を抱きかかえて元来た回廊の方へと戻っていった。
 
 
「黎深様、ただいま戻りました」
「ああ、入りなさい」
少々回り道をしてしまったものの、無事に辿り着いた尚書室の前で声をかけると、中から応答がある。扉を開けてくれるような親切心は持ち合わせていないのか、絳攸は書翰を抱えながら、尚書室の扉を苦労して開ける。
尚書室の中は火鉢が数個並んで焚かれていて、外の寒さが嘘のようだった。
「遅かったな。あの洟垂れはたかだか、それくらいのことにいつまでかかっているのだ」
「はあ、ですが、ただ御璽を押せば良いというものではありませんし。これでも早い方かと思われますが」
至高の存在である、一国の王を洟垂れ呼ばわりする黎深の相変わらす容赦のない台詞に、少し可哀想にになった絳攸は、ひとまず断りを入れておく。
それに対し、黎深はちらりと絳攸の方を見やるが、直ぐに何もなかったかのように絳攸の手にした書翰に目を移す。








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