[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
今、愛に生きます 2
楸瑛は思わず自分の手を見る。そして、驚きの余り目を見開いた。
それは、いつも見慣れているはずの手の半分もない、短くそして丸々しいものだった。
(まるでこれじゃあ――)
さあっと血の気の引く音が聞こえた気がした。
「大丈夫か、楸瑛?」
絳攸が心配そうな表情で楸瑛の顔を覗き込んでくる。
「あー」
言葉にしようとしたその声は、まったく意味をなさなかった。そしてその声が自分の知っている自分の声でない。そのことにまた愕然とする。
脳裏を掠めた考えが徐々に確信めいたものに変わっていっても、まだ気持ちがついていかない。
「歩くのを憶えたと思ったら、すぐに歩き回ろうとして。あまり、心配させないでくれ」
「だー、うー」
絳攸、とその名を呼びたいのに、やはりその声は言葉にならない。楸瑛はかなり混乱状態に陥っていた。
だって、これではまるで、自分が乳幼児になったようではないか。
意識はしっかりと、藍楸瑛、26歳、左羽林軍将軍なのに。
「どうした? お腹が空いたのか?」
絳攸の顔が近い。楸瑛の顔を再び覗き込む。それから、今用意しているから、もう少し待っていろと言って笑いかけてくる。
(しかも、まさか、この状況って、私が絳攸の子供――っ!?)
いや、ありえないし、望んでいた「彼とより密な関係」は、こういうことではない。
「もう少しだから、ここで良い子で待っていような」
言い含めるように絳攸はそう言って、再び椅子に座らせようと楸瑛を抱き上げる。その時に、ふわっと良い匂いが楸瑛の鼻を掠めた。
あ、ちょっと役得かも、と楸瑛はほんの少しそう思った。けれど、その次の瞬間に、
「もうすぐお父さんも帰ってくるからな」
絳攸の言葉に、楸瑛の中の26歳の意識は、思い切り冷水を浴びせられたようになった。
絳攸がお母さんで、そこにお父さんってことは、それってつまり、
(絳攸の、夫!?)
いや、それは待て。いくらなんでもそれはないだろう、と楸瑛は誰にともなく突っ込みを入れる。
誰が絳攸の夫だというのだ。むしろ自分こそが立候補したいくらいなのに。
(まさか、黎深殿とか? 主上とか、静蘭とかだったらどうしよう)
静蘭なんかだった日には、本気でその日のうちに出奔してしまいたい。
(いや、でも私が子供ってことは……流石に兄たちのはずはないだろうし、龍蓮、もさすがにないよな? ――はっ、もしかしたら、もう一人の私、とか……?)
だんだんと混乱ぶりが思考にも現れ始めていた。
とりあえず楸瑛が大人しくなったのに安心したのか、絳攸は楸瑛から手を放す。それがちょっと寂しくて、絳攸を目で追う。その気持ちが表情に表れていたのか、
「甘えん坊だな、楸瑛は」
と言って苦笑する。その笑顔がいつになく優しくて、楸瑛は思わず見惚れてしまう。
もう、何でも良いかも、などとちょっと思ってしまったその時。
「焦げてますよ」
冷静な男の声が絳攸の背後からした。
「あっ!」
絳攸が慌てて振り向く。先ほどまで絳攸が立っていた厨房の、蒸篭からは、ちょっと焦げた匂いと煙が立ち上がっていた。
「――様、ありがとうございます」
ばたばたと絳攸が彼に駆け寄る。その足音に、名前の部分がかき消された。どうやら、火は彼が消してくれたらしい。
「火をつけたまま離れては危ないと、前にも言ったでしょう」
「すみません。ちょっと楸瑛が椅子から落ちかけたものだから」
ああ、とその男は言ってから、少し突き放したような声で
「大丈夫ですよ。男の子は元気すぎて、少しくらい怪我をするくらいが丈夫に育ちます」
などと言い放った。
楸瑛からはその顔は見えない。声は――どこかで聞いたことがあるような気はするが、顔が思い浮かばない。
(まさか――)
いや、でもまだ決まったわけではない。親戚とか、ただの上司とかって線だって有り得る。と自分に言い聞かせる。
「それにしても」
そんな楸瑛の心の葛藤など知ってか知らずか、落ち着き払った声の主は、少し笑みを含んだような声で言った。
「いい加減、その呼び方も卒業してほしいですね。それも、ずっと言っているでしょう」
「え、あ――」
少し恥じらったような絳攸の声。楸瑛は咄嗟に耳を塞ぎたい、と思った。